すっかり湯気のなくなった室内に、ぎしぎしと揺れる音だけが響く。
 思えば大きな揺れは感じない。停泊しているのかな。

 緩くなった湯を絡ませながら、木槽から立ち上がる。
 撥ねる水音。
 今はひどく耳障りに感じた。

「…風邪をひいてしまいますよ」

 声をかけられて顔を上げると、木戸の向こうから困ったように笑うジャスパーの顔が覗く。
 予想外なことが起き過ぎて、随時長く時間をかけてしまった。
 付き合わせてしまって申し訳ない。

 返事はできずに少しだけ笑って、木戸にかけていたタオルを手に取る。

 多分、さっきの会話にジャスパーは気付いていないのだろう。
 あの声はあたしにしか聞こえない。
 あの時間はあたし達の間にしか存在しない。
 理由も根拠もないけれど、確信だけはあった。

「そんな心配なさらなくても、レイは本当にあなたを売ったりしませんよ」

 ジャスパーの言葉に思わず水気を拭っていた手をとめる。
 確かにそれも、気がかりではあったけど。

「…そうなの…?」
「ご確認された通り、男所帯ですから。今回の航海は長かったですし、港まではまだ3日はかかります。みんな飢えてしまっているんですよ。そこにマオみたいなかわいい女の子が転がり込んで来たんですから、予防線を張ったんです。この船では商品と人のモノには手を出さないのが絶対のルールです。キャプテンの制裁は、冗談抜きにこわいですから」
「…そ、うなんだ…」

 おそらく自分を気遣って、優しい声音で言うジャスパーに少し気が抜ける。

「とはいえやはり、まだマオの得体が知れない以上はこちらも牽制しないわけには行きませんから。だからああいう言い方になったんです」

 そうか、あの言葉は船員とあたし、両方への牽制だったんだ。

「ぼくが世話役に選ばれたのは、そう意味です。無害そうでしょう? 見張り兼、護衛です」
「…護衛…」

 無害そうかは置いておいて、護衛という意味ではどうだろう。
 自分より背も低いし、体の線も細く見える。
 あの甲板に居た他の船員たちに力で勝てそうにはとても思えない。

「あ、その顔。信じてませんね。ぼくこう見えてこの船ではエライほうなんですよ。キャプテンと副キャプテンと、航海士の次くらいに」
「え、そうなの…?」

 思わず零れた本音に、ジャスパーはむっと頬を膨らませる。
 慌てて口を押えて「ごめん」と零すと、今度は得意そうに笑った。

「ぼくはこの船の料理長です。ぼくの機嫌を損ねると、ごはんにありつけませんよ」

 なるほどそれは。

「それは…こわいね」

 言って自然と、くすりと笑う。
 強張っていた心が少しだけ解れた。