上がる息を気にしていられなかった。
 反射的に掴んできた携帯を片手に、数十分前に歩いた夜道を駆け抜ける。

 思い出せという命令にひかれるように、足が向かう先はひとつだった。
 落とした可能性がある場所。
 ひとつしかない。
 旧校舎のプールだ。
 だってそう、それまでは。
 確かにここに、あったんだから。

 心臓が痛い。
 酸素が足りないのか、それとも別の。
 ただ痛くて苦しくて、必死にすがりつくみたいに走った。

 あの青い石は、お母さんの大事なものだった。宝物だった。
 どんなにねだっても、触らせてもらえなくて。だからあれはお母さんからもらったものじゃなくて、わたしが勝手にすがりついたお守りだった。
 お母さんがわたしに用意した宝物なんて要らないからだからこれをちょうだいと、身勝手に。お父さんは何も言わないのをいいことに。
 だってそうしないと、それだけでも残しておかないと。
 本当に全部、焼かれてしまえばもうお母さんは――


 鍵のかかっていないフェンスを開けて、肩で息をしながら水の張られたプールを見下ろす。
 月明かりが水面で揺らいでいた。
 まるで誘われているみたいだと思った。

 あたしは目の前のプールに躊躇なく飛び込んだ。
 息を吸い込み携帯の微かな明かりを水中で翳しながら水底に目を凝らす。
 それを何度も何度も繰り返す。

 制服がジャマで泳ぎにくい。だけどとにかく必死だった。
 泳いでいるのにまるで、溺れてるみたいだ。
 泣きながらプールの水を呑んでは吐き出す。
 だけどどんなに水底を探しても、青い石は見つからなかった。

「どこなの…!」

 キラキラと、月の光が薄暗いプールと水面を照らす。
 丸い月を縁取れない水面の光は、別世界の入口のようだ。

 ああ、あたし。
 どうしてそんなことを思ったんだろう。
 だけどそれは、あたし自身がもう知っていた。思い出していた。
 あの石をなくしたのは、ここでじゃない。きっと。

「……シア…!」

 伸ばした手の向こう。
 すがりつくように、あたしの名前を呼んでいた。
 まるであの日のあたしみたいに。
 だからきっとあたしも、彼の名前を呼ぶとき、この瞬間でさえ。
 こんなに胸が痛むのだろう。

 ――行きたい?

 声が、した。
 シアじゃない。七瀬でもない。
 それは自分の中から。
 水音がやけに耳の近くで撥ねる。

 何を言ってるの?
 あたしに言ってるの?
 ――いったい、誰なの。

「だれ…?」

 無意識に口に出す。だけどここには自分ひとりしかいない。
 木々のざわめきに揺れる水音。蜩はもう、永遠の夢の中。

「行ける、の…? また、あの世界へ……シェルスフィアへ…!」

 どうして戻ってこれたの?
 あたしはあの世界で、シアに喚(よ)ばれた。
 必要だって。あたしに、ここに居ろって。

 ――じゃあ、受け入れて。ぼくの、望みを。ぼくの存在を。

「あなた、は…」

―― 『アンタのその体かもしくは魂のどこかに、ヤツらは居るんだろう』

 リズさんの言葉が頭を掠めた。
 もう間違えない。
 あたしは確かにあの世界で、シアの手をとったんだ。

 風も無いのにやけに騒ぐ水面に光が浮かぶ。
 引き戻された時の、あの淡い光だ。シアが望んだ、神さまの力――

 それを受け入れたらあたしは、どうなるの?
 それを自分で、選んでいいの?
 それが何を意味するかも、分からずに――

 持っていた携帯のランプがチカチカと点滅していた。
 また、七瀬かな。
 あれから何度か電話があったけどあたしは出なかった。
 その痕跡のランプが光る。まるで警告してるみたい。

 行くな、っていうの? 七瀬。
 そういえば七瀬も言ってくれていた。傍に居て、って。
 ――だけど。

「…っ、神さまだかなんだかしらないけど、勝手にひとの体に許可なくはいってきて、勝手なこと言わないで…! いいからあたしを、連れていきなさいよ! 大事なものが、そこにあるの…!!」


 あの、海と貴石に愛された青の王国へ…
 流れる涙にも気づかない、小さな王様の元へ――!


「――…!」

 水面に揺らいでいた月の光が、大きく膨れ上がり夜色の空へとまっすぐ伸びた。
 それはシアに手をひかれながら見上げた、あの光の柱に似ていた。