「幸い、私は副社長と違って、結婚しなくてもうるさく言われるような家じゃなかったし」

自分は女子ということもあるし、きっと母親は結婚して落ち着くことを望んでいるだろう。だからといって、躍起になって見合いを勧めたりとか、しつこく結婚の予定を聞いてくることもない。

実際、周りで許嫁がいるだとか、見合いをしたという話なんか聞いたこともないし、ましてや政略結婚だなんて無縁だ。

だから、改めてそういう立場の人について考えることもなかった。

柳多の言葉を聞いて、忍はいきなり無茶を言う人間だと思っていたが、一番大変なのは忍なのだと気づかされる。

「社長が三十五のときに副社長が生まれたから、そこが基準になっているんだと思う。だから、三十四歳までに結婚して、三十五には子どもをって」
「子ども!? きっ聞いてません!」

柳多の見解よりも、最後のワードに引っかかる。

まさか、子どものことまでは考えていなかった。契約結婚で、お互いに恋愛感情もなにもないから、そんなところまで想像は及ばなかった。

鈴音は、忍がどこまで自分に求めているのかを確認していないがゆえ、血相を変える。

(いや、でもまさか……そんなことまで)

心の中で『ありえないよ』と自分に言い聞かせるも、絶対に大丈夫とは言い切れず、不安は拭えない。いっそう責任感がのしかかってくる。

表情を曇らせる鈴音に、柳多は明るく笑った。

「ははっ。そうだったんだ。いや、でもそこは心配しなくても。今の時代に、さすがにそこまでしてもらおうだなんて思っていないさ」

忍の秘書で、常識のありそうな柳多から聞くと、鈴音はホッとする。
柳多は恭しく後部ドアを開き、美しく会釈をしたあと「でも」と続ける。

「人前では〝そうなる〟空気感は出さなきゃ……ですね」
「そんな! 私は」
「さぁ。そろそろご自宅にお送りいたします」

鈴音は、ドアに手を添え、業務的な口調に戻った柳多を困った顔で見上げる。しかし柳多は、張り付いたような笑顔を返すだけ。

渋々、婚約者扱いを受け入れ、後部座席に乗り込むと、柳多がドアを閉める直前に囁いた。

「前日までには、副社長も時間を作られると思いますから。そのときに、色々と打ち合わせをされたらよろしいかと」