そんなことなど知らない忍は、悠長に話す。

『思った以上に早かっ』
「た、すけて」

その言葉尻にかけて、鈴音がぽつりと口にした。
たったひとことだけ。それなのに、すべてを察した忍は、静かな口調で返す。

『今、どこだ?』
「し、職場から、少し行ったあたりを」
『人通りの多いところにいろ。すぐに行くから。電話は切らず、このままでいい』

忍に言われ、鈴音は思い切って駆け出した。
言われた通り、携帯は通話状態のまま、来た道を戻る。

ぽつりぽつりと歩く人を縫うように走り、曲がり角を曲がる。たまたま入り口が開いたカフェに飛び込んで、息を顰めるように追っ手の動向を窺った。

たった百何メートルの距離なのに、フルマラソンでも走ったかのような息切れと動悸。
鈴音は、胸に手を当て、必死に跳ねまわる心臓を落ち着けようとする。

(大丈夫。店内には人がいるし、きっとすぐ彼が来てくれる)

そうして今度は、窓越しに忍の姿を探し始めた。

鈴音は、あの瞬間、警察ではなく、忍に連絡するほうを選んだ。

身の危険を感じた手前、本来ならば警察のほうがよかったはずだ。しかし、鈴音は、あの状況で自分が的確に通報できたとも思えなかった。

結果的には、やはり忍でよかったとすら感じている。
『助けて』という、たったひとことだけで、すべてを把握してくれたのだから。

「やっと見つけた」

そんなことを考えていると、横から声を掛けられた。油断していた隙に、山内が鈴音を見つけてやってきたのだ。
目を剥いた鈴音は、声も出せない。

「突然走り出すから、びっくりした。喉でも乾いた? あ、ここで少しコーヒー飲んで話でもしようか」

人の笑顔がこんなに怖いと思ったことはなかった。
助けを呼べば、すぐ近くに人はいるのに、言葉が一切出てこないのだ。

ただ、見開いた瞳に山内を映し出す。落ち着けようとしていた心音は、この上なく騒ぎ、破裂でもしてしまいそうな錯覚を覚えるくらいだ。

鈴音が浅い呼吸を繰り返していると、山内がゆっくり手を伸ばしてくる。