鈴音は震える唇をどうにか動かした。
すると、忍は鈴音の足首からそっと手を離し、足元を見たまま初めの質問に答える。

「伊豆に来たのはオレの勘だ」

ずっと連絡がつかず、鈴音の職場、友人、実家に尋ねても消息は掴めなかった。それでも忍は必死にあてを考えていた。

いよいよ興信所にでも依頼しなければならないかとまで思ったときに、ふと思い出した。

少ない思い出の中で、鈴音がとてもうれしそうな顔をしていたときのことを。

「オレはきみのことを全然知らない。それでも、ここにきみがいる気がして……。旅館に尋ねたらオレを知ってくれていたようで、この山に来ているだろうと教えてくれた」

藁にも縋る思いで宿泊券に記載されていた旅館へ向かった。

そこで三拝九拝して鈴音の情報を求める忍を鈴音に達磨山を紹介した仲居が見つけ、こっそりと行き先を教えた。
仲居は朝のニュースで忍を見ていたため、不信感を持たなかったのだ。

「え……?」

そんな事情を知らない鈴音は、忍の顔はそこまで知れ渡っているものなのかと吃驚する。
困惑するばかりで言葉が出てこない。

真正面の忍を瞬きもせず見続ける。

「柳多から全部聞いた。金のことも婚姻届のことも」

鈴音は目を見開く。

すべてを知ったうえで、忍はここへなにを伝えにきたのか。

期待と不安が入り交じり、思わず視線を逸らしてしまった。

「そう、ですか」
「柳多が謝って返してきた」

忍が内ポケットから取り出したのは、少し皺がついた婚姻届。
意を決して名前を書き、両親に証人として書いてもらったことが鮮明に蘇る。

同様に忍も、婚姻届を手にしたときを思い返しつつ、静かに微笑んだ。