柳多が昼過ぎに副社長室へ訪れていた。

 まだほかの社員は昼休憩の最中だという時間に、忍はすでにデスクに着き、パソコンを眺めていた。
 頬杖をついている忍の左手を見て柳多が言う。

「その指輪。鈴音さんにつけてもらったんですか?」

 突拍子もない発言に、忍も思わず口をぽかんと開けて固まった。
 柳多を見上げ、数秒置いてひとこと返す。

「まさか」

 柳多は忍に鼻で笑われても動じない。
 眉ひとつ動かさず、柔和な面持ちのままだ。

「そうですか? ご自分で結婚指輪をはめるなんて、それほど虚しいことはないでしょう。結局、指輪もご自身でショップに足を運ばれたとか……」
「もう黙れ」

 柳多の話は忍にとっては触れてほしくないもの。
 不快ということではなく、柄にもなく恥ずかしいのだ。

 それを悟られないよう鋭い声で一蹴したが、柳多相手では無駄だった。

 忍と柳多の付き合いは、実は忍が社会人になってからではない。それよりも前からだ。

 忍が高校二年生のときに、柳多はローレンスの秘書室に配属された。
 当時二十三歳の柳多は、秘書という仕事に就いたことはなかった。

 それでも、資質というものなのか、瞬く間に仕事を覚え、なくてはならない存在となっていた。

 社長である光吉と仕事をする機会が格段に増えると、自然と忍と顔を合わせることも増えた。
 その頃から、ふたりはなんとなく惹かれ合い、親睦を深めてきた。

 忍が大学を卒業し、ローレンスに就職すると、いっそう柳多との関わりが増える。
 そして現在、秘書室長になっている柳多が主に補佐しているのが光吉と忍だ。

 しかし、柳多はなにかと忍のほうに寄ってくる。

 そのため、忍のことを熟知しているのだ。