鈴音は咄嗟に手首を捕らえている大きな手を見た。それから、目を剥いて後ろを振り返る。
 寝室から出ることを制止したのは、紛れもなく忍だった。

 ありえない展開に頭の中は真っ白で、瞬きさえせず忍を見つめる。

 当の忍も、自ら動いたはずなのになぜか鈴音と同じように吃驚したような表情をしていた。
 それでも忍は鈴音の手を離さずに、僅かに目を泳がせいいわけを口にする。

「……まだ少し、話がしたい気分だったから」
「で、でも……」

 鈴音は今にも口から心臓が飛び出そうだった。かつてないほどの心拍音に、冷静になどなれるわけもない。
 忍を窺うように上目で見る。

「さっきの面白くもない話を最後に寝ると、夢見が悪そうだしな」

 鈴音と比べ、忍は自分の行動に開き直ったのか落ち着いた雰囲気で笑った。
 鈴音の手を離し、ベッドサイドに腰を下ろす。

「気にしなくても、きみの寝相の悪さにはもう慣れたしね」
「ごっ、ごめんなさい」

 目を伏せて冗談交じりに言うと、鈴音は赤面して深く頭を下げる。

 冗談っぽい発言とはいえ、それは事実だと鈴音は自覚している。
 何度も朝目覚めては青褪めていたのだから、簡単に下げた頭を元には戻せない。

 忍は鈴音の旋毛を見つめ、ぽつりと返した。

「いや。寝心地よさそうな鈴音の顔を見ると、オレもよく眠れる」

 あまりに柔らかな声だったものだから、鈴音は思わず顔を上げてしまった。

「おいで」

 忍の瞳が優しく細められる。
 差し出された手のひらに誘われるように、鈴音は左手を伸ばす。

 鈴音は夢の中にいるようなふわふわとした気持ちで、片足を浮かせた。


 その夜、鈴音の学生時代や仕事など、本当に些細な話を少しして眠りに就いた。
 鈴音はもう二度と一緒に寝ることなどないと思っていたのに、隣に忍の存在を感じて胸が熱くなった。

 翌日。忍が出社してから鈴音は前日の出来事を手帳に書き記す。


【婚姻届が受理された。……相手は、まだ出会って間もない人――。だけど、心のどこかで彼でよかったと思ってる】