「それが、……その。ドーレ男爵です。その、……実はその馬車の中に、アンドロシュ子爵の奥方がおりまして……。おふたりは、怪我だけで済んだそうです」


言い淀みながら顔を上げた伝令は、リタ夫人の顔を見て慌てて顔を伏せる。
上から見ていたフリードにも、リタが小刻みに震えていたのはわかったが、伝令の態度を見るに、彼女は怒りで震えていたのだ。


「……アンドロシュ子爵ですって?」


凄みのある声に、ゴードンも息を飲む。

アンドロシュ子爵は、クレムラート領の北方に住む貴族で、今でこそ特に目立つ働きはしていないが、継承戦争の時に武勲を上げた名誉ある家系として今も敬意を払われている。
五年ほど前に妻を病気で失った子爵は二年前に再婚した。今言われているのはその奥方だ。


「それは……どういうことなの?」

「詳しくはわかりませんが、男爵は不倫の末、アンドロシュ子爵の奥方を連れて逃げようとしていたようです」

「はっ、ふたりとも浮気道中でぶつかったということ? ……なんてこと! 汚らわしい」


リタは怒りに満ちた目で二階を見上げた。フリードは恐怖で身をすくませたが、ディルクは立ちすくんだだけだった。


「……ディルク」


ディルクに表情はなかった。ただ茫然とうつろな目で睨むリタを見つめている。
フリードは不安になり、彼を庇うように前に立った。


「そこのドブネズミを追い出しなさい!」


リタの鋭い声とともに、周囲の大人の視線が一斉にディルクととらえる。
同じように視線にさらされたフリードは、膝が震えてくるのが分かったが必死に首を振った。