黒瀬君はいつも、ちゃんと私の名を呼んでくれた。

君でもあの人でも彼女でもなくて、木戸さんと呼んでくれた。


明るく朗らかに、どんなに視線が痛くても、どんなに口さがない話をされても、私と話すときも、私以外の質問に答えるときも、ただただ優しく私の名前を口にしてくれた。


そんなふうに黒瀬君が私の名前を呼ぶのを聞くと、なんだかあんまりにも照れ臭くて、恥ずかしくて、嬉しい。


「あの子、彼女なの?」

「違いますよ。俺が木戸さんに向けるのは尊敬と友情です」


――そんな会話を何度も聞いた。


「違うからね、木戸さん。俺が木戸さんに向けるのは、尊敬と友情だけじゃない」


――そんな訂正を何度も聞いた。


不安げな黒瀬君が、人の気配に言葉を飲み込むのを何度も見た。


白くなるほどきつく握られた手に、思う。


大丈夫だよ、黒瀬君。


……分からないなんて、言わない。


私だって、黒瀬君に向けるのは、尊敬と友情だけじゃないから。分からないなんて、言わないよ。


この恋は、恋と呼べるまで、恋じゃなくていい。

今はまだ、この騒ぎが落ち着くまで、名前がなくていい。


黒瀬君が私と一緒に読書をしてくれる。隣を歩いてくれる。笑ってくれる。私の名前を、大事に呼んでくれる。


だから私も、黒瀬君のことを明るく大切に呼びたい。凛と前を見て、背筋を伸ばして、教えてもらった笑顔で笑うの。


でも、それでも、いつ終わるのか分からないざわめきは、確実に私たちを疲れさせている。


私たちの関係は始めから変わらないけれど、確かにお互いに疲れと遠慮を感じていた。


胸に沈む言いようのないわだかまりに名前をつけるとしたら、きっと、恋心と緊張と、少しの焦り。