全然見られていないけど、直は今、九州の方のホテルで名人戦の第5局に臨んでいるはずだ。
A級在籍4年での名人挑戦。
世間がどう見ていようと、直にとっては長い時間だった。
初めて棋聖を獲って以来タイトルを獲ったり奪取されたり、段位は最高の九段にまでなったけれど、現在は無冠。
その間、名人には指もかからなかった。

対するは折笠則人名人。
直より3歳年上の折笠名人は奨励会時代から知っていて、一緒に飲んだりもする仲だ。
しかし、直がモタモタしている間に折笠さんはA級在籍一年目にして名人をかっさらっていった。
昨年は3連覇していた棋聖も奪われていて、名人戦の中継を観ていた直は、

「ふーーん」

と、地を這うような低い声でつぶやいた。
うっかり聞いてしまった私は、この時ほどプロ棋士じゃなくてよかったと思ったことはない。

ここ数年、対局中の直はとーっても怖い。
表情や態度に変化はなくても、指す手に容赦がない。
相変わらず将棋の内容なんてわからない私にでも、すうっと伸びた手がパチンと駒を置いた瞬間、それが攻める手だってわかるほど。
迷うことなくパチンパチンパチン、とノータイムでどんどん指す時なんて、相手が悩んで悩んで指しても、一呼吸置かずに指す。
「それは読んでましたよ」って言ってるに等しい。
私なんかがおこがましいけど「もう許してあげてー!」と相手をかばいたくなる時がある。
私より詳しいおじちゃんなんて、

「今の有坂先生に真っ向から斬られるような手指されたら、俺怖くて泣くかも」

と声を震わせた。

「おじちゃん、直って正解がわかってるのかな?」

「正解?」

「あんまり悩まないで指すことも多いでしょう? あれ、何か勝ち筋でも見えてるの?」

「研究に自信があるんだと思うよ。それだけじゃなくて、局面を見た瞬間に良し悪しが判断できる大局観が抜群に優れてるんだと思う。……本人に聞けば?」