「だからと言って、大切な物を守りたいと願い続けたあの日々が無駄であったとも、無意味だったとも思いません」


 月から目を離して、彼はあたしを見て微笑んだ。


 その穏やかな微笑には、あたしへの労わりと慰めが込められている。


 あたしも、いずれ訪れるかもしれない『その日』を恐れ、目を逸らしながら願い続けている。


 どうかこの平凡な日常よ、続いてくれと。


 でもその願いは叶わないかもしれない。


 欠けていく月を眺めながら祈り続けるこの日々の終わりが、とつぜん訪れるかもしれない。


 ……とても怖いんだ。


 あたしは、いつとも知れず訪れるかもしれないその日を、怯えている。


 その気持ちを誰よりも知ってるセバスチャンさんは、こうして慰めてくれる。


「願う日々の先にある物が何であるかは、誰にも分りません。なるようにしかならぬのなら、今を守り続けるより他に、できることはないでしょう?」


 大切な人に事実を隠して嘘を吐き続ける日々が、これからも延々と続くかもしれない。


 つらいけれど、苦しいけれど、あたしはそれを望んでいる。


 卑怯であっても、偽りであっても、愛しいから。


 この世界と、この世界に生きる大切な人たちのことが愛しくてたまらないから。


 だからせめて自分を慰め、言い聞かせるんだ。


 これより他に、自分にできることはないんだと。


「皆様が中でお待ちです。参りましょう。お嬢様」


 いつもと変わらぬ笑顔でそう言うセバスチャンさんが、玄関に向かって歩き始める。


 彼自身は、この先に何を望んでいるだろう。


 水絵巻を取り戻したとき、事実が隠しようもなく明らかにされてしまうことを、果たして望んでいるのかいないのか。


 あたしは黙って夜空を見上げ、月を眺める。


 黄色い月は天に佇み、霞む光を放って遠い場所からただ下界を見おろすだけ。


 その仄かに冴えた、素っ気ないほどの美しさが少しばかり恨めしい。


 ……ねえ、黙って見てないで何とか言ってよ。お月さま。


 それでも月は、佇むだけ。


 あたしは月から視線を逸らし、セバスチャンさんの背中を追って玄関に入った。