しばらく私の顔をじっと見ていた彼方くんが、ふいに、「消さないでよ」と言った。


「消さないでよ、それ」


私は、なんで、とかすれた声で聞き返す。

すると彼方くんは、困ったような顔でわらった。


「だって、泣いてるから」


笑いを帯びた声が言った。


「泣いてる……? 誰が?」

「遠子が」


そう言われて、私は刷毛を置いて、右手でそっと頬を撫でた。

ひんやりと冷たかった。

次々と溢れる涙が、頬を流れていた。


「泣きながら消すくらいなら、消さないでよ」


彼方くんがそう言って、窓枠に手をかけた。


え、と目を見張っているうちに、彼はひょいっと窓から中へ入ってきた。


「こんなに簡単に入れるのに、今まで入る勇気がなかっただけなんだな」


彼方くんは窓の内側からグラウンドを見た。

それから私に向き直る。


彼は私の左手からパレットをそっと抜きとり、机に置いていた刷毛をつかんで背後に隠した。


「これで、もう、消せないよな」


くすくすと楽しそうに笑った彼方くんの耳は、夕焼けのせいではなく、赤く染まっている。


「遠子」


と呼ばれた。

心地のいい柔らかい声で。


「遠子、俺は」


そう言って一歩近づいてきた彼方くんの瞳に、いつもとはちがう熱のようなものを感じた。