私と奏士くんは、美術館を出て公園に向かった。
ハンバーガーとコーラを買って、公園のベンチに座り食べ始める。
池一面に浮かぶ睡蓮の花がとても清楚で可愛くて、
白い花と緑の葉っぱの入り乱れる景色に、
神社の鳥居が目の前に飛び込んでくる。
辺りを見渡せば花壇の花々も鮮やかで、
私が知っている公園とは、違った華やかな景色に見えた。


(弁天池公園)


奏士「この蓮の花もそろそろ見納めだな」
蒼  「そうね。この公園来るの久しぶりだわ。
  ここってこんなに明るかったかしら」
奏士「それってさ、今の蒼さんの心が明るいからじゃないの?
  自分の気持ちのままに景色は見えるもんだよ。
  悲しい時は何を見てもくすんで見えるし、
  幸せな時は何見ても輝いて見える」
蒼 「うん、そうよね。
  奏士くん、誘ってくれて本当にありがとうね。
  たくさんの素敵な絵を観て、
  こうやってたくさんの花を見てると、
  久しぶり穏やかな気持ちになれたわ」
奏士「気に入ってもらえて良かった。
  世間の人達は日常や何かに束縛されて、
  余裕の欠片もないだろ?
  いつも座って絵を描いてるとよく分かるんだ。
  行き交う人達は、どの人も眉間にしわ寄せて、
  への字口の険しい顔で余裕なくて、
  みんなロボットみたいに携帯画面から目を離さない」
蒼 「確かに、そう見えるわね(笑)」
奏士「少しは道端に座ってる猫や、
  ど根性植物に目をやる余裕を持たなきゃ人間らしくない。
  だからたまにはこうやって、人間らしくいる為にも、
  感性を刺激して、日常と違った世界を覗くのも必要なんだよ」
蒼 「うん、そうね。
  でも…みんなが余裕ないのは、社会は戦場と同じで、
  食う食われるかだから仕方ないのよ。
  奏士くんが就職活動すれば実態が分かるわよ」
奏士「ん?それって、僕がお気楽な学生だから、
  分かってないって言いたいの?」
蒼 「ううん、違うわよ。そう意味じゃなくて。
  うちの会社もそうだけど、
  職場の人間関係は凄くストレス溜まるの。
  真面目に勤めてる人達が損をして、
  上司に媚びて適当に手抜きして、
  仕事こなしてる人は得して楽しそうにしてる。
  毎日数字や時間に追われて、
  朝から上司の罵声がオフィスに響くと、
  喉まで出かけた言葉も押し止めて、
  言っても分かって貰えないと飲み込んじゃう。
  みんな何らかのストレス抱えてるのよ」
奏士「ふーん。どうしてそう考えるかな。
  何故、真面目な人が損して、
  手抜きしてる人が得してるなんて思うの?」
蒼 「え?何故って……」
奏士「人それぞれ性格も感じ方も、ものの見方も違って当然だし、
  聞いてみないと分からない事だってたくさんあると思うよ。
  見えてる部分では手抜きしてる人とか、
  自分では不利な事柄のように見えるものでも、
  陰では、人一倍努力して勝ち得たものかもしれないし、
  後でこの為だったのかって知ることもあるじゃん。
  その人の立場に立てば、
  自分の見えてるものと違うと分かる」
蒼 「う、うん。奏士くん、そうだけどね」
奏士「傍で見てると幸せそうに笑ってる人が、
  家に帰ればインスタントラーメン生活してたり、
  苦しくて何も買えないって言ってる人が、
  財布に万札いっぱい入れてたりする。
  真正面から見た景色だけ見たって、
  ものの本質は分からないんだから。
  自分だけが辛いなんて思えば思うほど、
  心はもっと辛くなるだけだよ」
蒼 「うん……そうよね」


奏士くんは美術館の時とは違う厳しい表情で語った。
でもその目はとても寂しそうな眼光を放っている。
そんな風に言われたら、私はなんて帰せばいいか分からない。
戸惑い俯く私の心が読めたようで、彼は急に穏やかな声で話し出す。


奏士「蒼お姉さん。ここらで暗い話し止めない?
  今日はデートなんだから楽しくしなきゃ」
蒼 「う、うん」


私達は公園を離れ、今度は自分の通う大学に連れて行ってくれた。
奏士くんは私の手を引いてキャンパスに入る。
するとそこには今まで見たことのない世界が広がっていた。
何だかここだけ重力がないのかと思うくらい、
体が軽く感じてキョロキョロ辺りを見回す私がいる。
奏士くんが入った建物は講堂で、舞台では演劇の練習中だったのか、
本を持った学生さんたちが思い思いに語り合っていた。


(講堂内)


奏士「彼らは、今度の学園祭と一月の演劇祭を目指してるんだ。
  演目は『シェイクスピアの“ロミオとジュリエット”』
  舞台で今手を挙げてる奴、あれは僕の親友でさ、
  今回ロミオ役に抜擢されたんだけどね。
  ジュリエット役の子とこれがキッカケで、
  付き合うようになったんだって」
蒼 「へぇー。凄いね。
  やっぱり演じるうちに、相手を好きになるってあるんだ」
奏士「うん、そうみたいだよ。
  人間は恋愛すると、脳内にβ-エンドルフィンっていう、
  脳内麻薬物質が分泌されて、
  気持ちが高揚して想像力は豊かになるらしいけど、
  奴は恋愛なんて無頓着なのに、演劇で恋愛物やると、
  本当に相手役の女の子に恋心が芽生えちゃうらしい。
  相手の事なんて全く知らなかったはずなのに、
  会って台詞交わす度にどんどん相手が気になっていったらしいんだ。
  これって凄い現象だと思うんだよ。
  たくさん接点を持つことのは大切だよ」
蒼 「そうね。会う度に……
  うん、それってすごく分かるわ」

私もそうだもの。
電車や公園で紺野さんの姿を見る度に惹かれていって、
これからは仕事でも接点が出来そうだと期待した。
そして、やはり紺野さんが私のお相手なんだろうなも感じる。


奏士「実はさ。
  僕、お姉さんのこと、だいぶ前から知ってたんだよ」
蒼 「……えっ。それ、どういうこと?」
奏士「毎日仕事の帰りに、さっき行った公園の屋根つきのベンチに座って、
  じっと弁天池を見てた時期があったでしょ?
  んー、あれはどれくらい前かな。一年は立つかな?」
蒼 「一年前……あっ!」

それは一年3ヶ月前のことで、
私が仕事を辞めようか悩んでた時だ。
その当時の私はある男性と付き合っていて、別れた時でもあった。


〈回想シーン〉


元彼「ごめん。好きな人が出来たんだ。
  だから蒼とは別れたい」
蒼 「え?……誰?…もしかして、同じ課の石川さん?」
元彼「うん。どうせ黙ってても同じ会社だし、いずれはバレるから」
蒼 「噂は本当だったんだ……」
元彼「蒼、本当にごめん!
  俺のこと殴っていいよ。完全に俺が悪いから。
  でも、彼女は責めないで欲しい。頼む」
蒼 「何なのよ、それ。やめてよ。
  私に頭下げて頼むくらい、彼女がそんなに大事なの?」
元彼「うん。大切にしたい人なんだ。
  蒼、分かってくれ」
蒼 「ひどい。今まで私ってなんだったの?」


それが元彼との最後で、2年8ヶ月の恋の終わりだった。
私はその失恋日から毎日、
会社が終わると弁天池を見つめて泣いていたのだ。
忘れていた苦い記憶を再びたどるのは悲しすぎる。
しかしそれよりもショックだったのは、
奏士くんがいちばん辛い過去の私を遠くから見て知っていたこと。


奏士「蒼さん?どうしたの?」
蒼 「やだなぁ。
  てっきり駅前で会った時が偶然の出会いだと思ってたのに。
  ずっと私のこと見てたなんて……」
奏士「え?蒼さん、僕が言いたいのはね」
蒼 「美術館で『モナ・リザ』の微笑がどうの、
  『フローラ』が何だのなんて言い出すから、
  いきなり何故なんだろうって思ってたけど。
  貴方の言うこと素直に信じたのに、
  一年前からふられて落ち込んでる女の表情を観察してた訳だ」
奏士「え!?蒼さん、そんなんじゃないよ!」
蒼 「将来有望な天才画家さん、どうだった?
  ふられて泣きはらした目と、
  一年も失恋の悲しみに苦悩する女の顔は。
  『モナ・リザ』に負けず劣らずで、本当に興味深い被写体よね」
奏士「あのさ、僕は今までそんな気持ちで、
   蒼さんを見たことは一度もないよ」
蒼 「もういいの。ごめんなさい。
  私、帰るわ。今日はありがとう」
奏士「蒼さん!ちょっと誤解だよ!
  ちゃんと僕の話を聞いて」


私はたまらず立ち上がり講堂を出た。
何だか裸を見られたような恥ずかしさと、
バツの悪いさが一気に襲ってきたのだ。


それから数週間、いつもと変わらない私の毎日。
職場でも何事もなく順調に仕事もこなし、
仕事の日は朝一緒に電車で紺野さんと話ながら出勤する。
昼休みに時間が合えば、
紺野さんと公園のカフェでランチしながら話す。
彼の人柄は見たとおりの誠実な人で、
裏表もなく親しみやすい人で、考え方や好みも似ていて。
彼も私を気に入ってくれたようで、
メールや電話、お誘いもだんだん多くなっていった。


(ほのぼのカフェ)

真一「そっか。こうやって話してると、
  やっぱり君とは縁を感じることが多いよね。
  本当に蒼さんとは気があうし、価値観が同じって言うか」
蒼 「私も同じ気持ちですよ。
  紺野さんと話してるとホッとします」
真一「蒼さん、僕のこと今度からは『真一』って呼んでいいよ。
  何だか堅苦しいよ」
蒼 「はい。じゃあ、真一さん」
真一「そうそう(笑)
  ねえ、蒼さんは今度の土曜日の予定は?」
蒼 「あっ、えっと。
  今度の土曜日はお休みで予定は入ってないです」
真一「そう!僕も久しぶりに土曜日休みになったからデートしない?
  静岡までドライブしようよ。
  蒼さんともっとゆっくり話したいし」
蒼 「はい、お誘い嬉しいです。デートなんて」
真一「良かった!詳しくは今夜電話するからね」
蒼 「はい」

私は紺野さんと会って話せば話すほど、
どんどん好きな思いが強くなっていった。
だけど。
だけどあの日から、あの美術館のデートの日から、
駅に向かう帰り道で奏士くんの姿を見かけなくなったのだ。
私は心の片隅でモヤモヤしたものが抜けなくて、
奏士くんのことが気になっていた。


奏士くんは楽しい時間を作ってくれようとしてたのに、
私ったらあんなひどいこと言っちゃったんだろう。
いくら『昔を覗かれたようでばつ悪かった』って言ったって、
あんな失礼な帰り方は本当に良くなかった。
きっと怒ってるだろう。
奏士くんを傷つけてしまったかもしれない。
でも私のせわしない心は、
奏士くんは今どうしてるんだろうと気がかりでいる。
何処か違う場所で絵を書いているだろうね。
でももしかしたら、体調が悪くて寝込んでいるとか、
事故にあって入院したなんてことはないだろうかとも考えてしまう。
何故こんなに奏士くんが気になってしまうんだろう。
そんな自問自答が、時間が経つにつれて増えていく。
それは、今までまったく気付かなかった、
自分の意外な側面が顔を覗かせた瞬間だった。


(続く)

この物語はフィクションです。