「俺の前では、一回泣いたじゃんか」
彼が聞こえるか聞こえないかの声でボソッと呟く。
耳のいい私には聞こえていたが、あいにく覚えがない。
「泣いてないよ。そもそも堤さんとの仕事でうまくいかなかったことなんかほとんどないし」
4月から共に仕事をしてきて、彼がこちらのリクエストに応えられなかったのは、この間のフローリングシートと今日のブルーメだけ。
彼との取引は、他社の担当と比べれば断トツでスムーズかつ安心・確実だ。
「違う、仕事じゃない」
「え? じゃあ、プライベート?」
彼には散々翻弄されてきた。
泣きそうになるほど悔しい気持ちや切ない気持ちにさせられたことはあったけれど、彼の前で涙を流した覚えなんて……
「したとき」
「へ?」
「この間、したとき。マヤ、ボロボロ泣いてた」
……思い出した。
勢い余って彼を押し倒してしまったあの日。
彼に与えられる止めどない幸福感と快感が、自分の身体だけで味わうにはあまりに大きくて、溢れてしまった分が愛の言葉や涙となって恥ずかしげもなく出ていった。
今になって思い返すと、かなり際どいことも口走っていた気がする。
恥ずかしくなって顔がみるみる熱くなった。
「こんなとこで思い出させないで」
折り返し運転になる電車が到着した。
乗客が降りるのを待って乗り込み、座って発車を待つ。



