奏の腕を引っ張り、ピアノの椅子に強引に座らせた。
「綾、俺はーー」
「ドビュッシーの『月の光』を弾いて。
奏の夢の原点は、あの曲だよ。迷子の私を救ってくれた、あのときみたいな音で弾いてよ。
楽譜通りじゃないと許せないっていうのは、言いっこなし。逃げないで」
奏は私と日野村先生、ロズベルグを順番に見てから、諦めたように小さく溜息をつき、おもむろに鍵盤に両手を乗せた。
奏が『月の光』を弾く。
出だしは緩やかなテンポで。
音の美しさを、印象的に響かせて。
この曲は、フランスの詩人ヴェルレーヌの詩『月の光』をもとにドビュッシーが書いた曲。
単に月に照らされる風景をメロディにしたわけじゃない。
『リュートを奏で、ダンスを踊るあなたは、悲しい心を仮面に隠す。
幸せを信じられない歌が、清らかな月の光に溶けて消えた。
穏やかな月の光は、悲しく美しく恍惚に溢れ、大理石に光を注ぐーー』
正確に覚えていないし、もっと長いけど、確かこんな詩だったと思う。
仮面の下に悲しい心を隠す……か……。
隠されているのなら、仮面を剥ぎ取れば、すぐに心は現れる。
でも、切り離されて別世界に行ってしまった悲しい心は、どうやって呼び戻せばいいのだろう……。


