誰も知らない根岸さんの過去と、
怒りの姿を目の当たりにして、私は呆然とその場に立ち尽くす。
彼の長年の苦悩と真実を知り、
その背景には常に夏鈴さんの存在があったのだと知らされる。
表面上の人物は根岸洋行なのに、今私の目に映っている彼は、
夏鈴さんが惚れこんだ、桑染洋史という男性なんだと感じた。
隠れて見ているつもりだった私だけれど、ここでとちってしてしまう。
彼の見せた意外な言動を受けて、ぼんやりと考え込んでいると、
歩いてきた根岸さんと鉢合わせてしまったのだ。
彼はびっくりした顔で私を見ていたけれど、
微笑みながらゆっくりこちらに近づいてくる。
星光「あっ!」
根岸「……」
星光「あ、あの。か、風で。
洗濯物を取り込んでいたら、
バ、バスタオルが飛んでしまったんです。
追いかけてきたら、こんなところまできちゃって、
参ったなって……あははっ」
根岸「ふっ(笑)
今日の風は反対方向。
飛んでいくなら海の方だな。
しかもそれ、濡れてる」
星光「あっ。
(私ったらバカ!むっちゃ無理な言い訳だよね)」
根岸「面白いショーだったかな」
星光「い、いえ。私、そういうつもりじゃ……」
根岸「星光さん、ありがとう」
星光「はい?」
根岸「夏鈴を助けてくれて」
星光「えっ!?」
根岸「あんまり森に近づくといつか狼に噛みつかれるぞ。
一人歩きする時は充分に気をつけろよ。
赤ずきんちゃん(笑)」
星光「は、はい……赤ずきんちゃん?
(狼って、誰?)」
根岸さんはとても優しい微笑みで私を覗き込んで頭をなでると、
意味深ではあったが彼なりの思いやりに満ちた忠告を投げかけた。
そして、何事もなかったように撮影現場に戻っていったのだ。
すっかり辺りは暗くなって皆が食事をしている際中、
ペンションの駐車場では密かに不穏な動きが起きていた。
神道社長や東さんはもちろん、
根岸さんですら気がつかないカレンさんの策略が、
撮影に潜りこんでいる協力者の手で進められようとしている。
(ペンションの駐車場、車の中)
カレン「はい、これ。引き継ぎ、お願いするわね」
協力者「いいのか?こんなに貰っても」
カレン「いいの。役立たずは解雇したから」
協力者「解雇?根岸は下りたってことか」
カレン「下りたんじゃなく、私が辞めさせたの。
あんな見せ掛けだけの男、こっちから願い下げよ。
貴方の方が感情を絡めずにやってくれそうだし、
しかもあの雑誌の記事、貴方が書いてくれたんだってね」
協力者「ああ」
カレン「センスが良いんだもの。感動しちゃったわ。
撮影だけじゃなくてライターの素質もあるんじゃない?
雑誌の写真も良かったしね」
協力者「あれは殆ど根岸が提供したものだ」
カレン「そう。とにかく目立たないように慎重にお願いするわ。
私、防御策を考えてあるの(笑)」
協力者「分かった。会って話すのは今夜が最後だ。
今後の連絡は携帯にする」
カレン「OKよ」
(別荘、リビング)
その夜、私はいつものように、
食事の片づけを終わらせてため息をつく。
エプロンを畳んで、椅子に置くとリビングを見回した。
星光「(あれ?
北斗さん、さっきまでソファーに座ってたのに居ない。
東さんも……ふたりで二階に上がったのかな)」
リビングで皆笑いながらポーカーをしていたけれど、
私は和気藹藹とした空気の中にいるのが辛かった。
長年の憤懣をカレンさんにぶちまけた昼間の根岸さんと、
流星さんや風馬たちと話しながらカードを切る今の根岸さん。
あまりに大きすぎる彼のギャップをひとりで抱えるには荷が重すぎて、
内心、北斗さんか流星さんに相談したかったのだ。
ひとりで考えていると息苦しくて、まるで酸欠状態になったようだ。
私は居たたまれず、誰にも告げずそっと庭の外に出た。
今夜も穏やかな月が静かに輝き、
暗い夜道も見守る様に照らしてくれている。
私は森の小道を歩いて、勝浦の海が見渡せる丘へ向かう。
静寂を湛えた海が見たくて、暴れ出しそうな心を落ち着かせたくて。
しかし丘には既に先客が居て、私は反射的に身をかがめた。
星光「(やばい。昼間のこと思い出しちゃった。
また覗き見するなんてね)」
白い月の光に照らされた先客を見た途端、
私は顔面蒼白となり言葉を失った。
北斗さんと一緒に居るのがカレンさんだったからだ。
彼女は大粒の涙を流し、ずっと謝っている。
私は何が起きているのかまったくわからない。
星光 「(ど、どうして……北斗さんとカレンさんが)」
カレン「ごめんなさい。ごめんなさい……
私がバカだったわ」
七星 「カレン、こういうのやめないか。
みんなのところに戻ろう」
カレン「勝手に単独行動をして、貴方に嫌な想いをさせて困らせた。
カズ、私を見捨てたりしないで。
私を助けて。お願い……」
七星 「21日、写真集の出版イベントの会見。
あれはどういうことだ?」
カレン「あぁ。あれは本当よ。
私がインタビューで応えたことが載ったの。
カズと婚約してもうすぐ結婚するって。
写真集のイベントっていうより、
私たちの婚約会見みたいになったわね」
星光「(えっ……北斗さんとカレンさんが結婚!?
みんなが隠していた報道ってこのこと!?)」
パンチを食らったように動揺し、放心状態になった私。
暫くどうしていいのかよくわからないまま、
ぼんやりとふたりの会話を聞いていた。
七星 「どうしてそんな勝手なことを!」
カレン「カズを愛してるからに決まってるでしょ!
ずっと変わらず愛してるの。
根岸くんのことは貴方にやきもち妬かせたくてやったこと。
それに彼がカメラと水野さんの酸素ボンベに細工したの。
私、脅されてしかたなく手伝ったんだけど、
水野さんを危険な目に遭わすことにやっぱり耐えられなくて、
だって仲間なんだもの。
もう死んじゃいたいって思って、
海の中で自分の酸素を空にした……」
七星 「なんだって……」
カレン「事実を神道社長と東さんに話してもいいわ。
私を信じて、お願い」
七星 「……」
カレン「死にかけた私を人工呼吸して助けてくれたんでしょ!?
カズ!私の命を救ってくれたように根岸くんから私を守って。
お願いよ……」
星光 「北斗さんが、死にかけた彼女を助けた……
もう(泣)居なくなっちゃいたいよ……」
カレンさんは北斗さんを見上げながら泣いて縋り、
抱きつくとキスをした。
体のずっと奥のほうでずくんと鈍い音を立てた後、
心臓の鼓動はどくんどくんと早くなり、全身が重くなって焦点も合わない。
その光景を見た瞬間、
私の思考は停止し、何を信じればいいのかわからなくなる。
でも何かが私を引き止めるか、
ふんわりと頭に浮かんできた流星さんの言葉と根岸さんの忠告。
『でもひとつ言えるとしたら、
今雑誌やTVで流れてる報道は真実じゃないってことだけだな』
『あんまり森に近づきすぎると狼に噛みつかれるぞ(笑)
一人歩きする時は充分に気をつけろよ。赤ずきんちゃん』
それがこの出来事だと、その時の私はまったく気がつけず、
ゆっくり後ずさりしてふらつく足取りで別荘に戻っていった。
不敵な笑みを浮かべる狼は、項垂れた赤ずきんの後姿を、
鋭い眼光でじっと見ていたのだった。
(続く)
この物語はフィクションです。

