ずっと心の奥にしまっていたお互いの気持ちを素直に語り合い、
喉へ突き上げてくる程の嬉しさを味わった日から8日が経った。
まだ8月も半ばを過ぎたばかりなのに、
窓を開け放つと、もう秋風らしい街路樹の葉揺れの音が心地いい。
そんな爽やかな晩夏の午後、北斗さんは退院の日を迎えた。
着替えを済ませた彼は、ベッドの上のパジャマ着を畳みバッグの中に入れる。
その時…


コンコン!(ノック音)


七星 「はい。どうぞ」
美砂子「北斗さん」
七星 「古賀婦長」
美砂子「今日、退院ですって?おめでとう」
七星 「はい。ありがとうございます。
   この度は大変ご心配おかけしました」
美砂子「貴方が無事で居てくれてホッとしたわ。
   回復できて本当に良かったわね」
七星 「はい。
   これも、星光さんと古賀婦長のお蔭です。
   彼女から聞きました。
   お母さんのアドバイスがあったから頑張れたって」
美砂子「そう。あの子がそんなことを(微笑)
   星光が北斗さんの心のナースになれて私も安心した」
七星 「心のナース、ですか」
美砂子「ええ。大切な人を看病する時だけ現れる心のナースよ。
   星光は?一緒じゃないの?」
七星 「今、僕の上司と退院手続きをしてくれてます」
美砂子「そう。そうだ……私も北斗さんにお礼を言わなくちゃ」
七星 「えっ。僕にですか?」
美砂子「ええ。
   星光を貴方の会社に留まらせるように、
  社長さんにお願いしてくれたんでしょ?」
七星 「あぁ、そのことですか。
   僕は大した事はしてませんよ。
   彼女が勝浦の慣れない仕事を真面目に熟して得た結果です」
美砂子「そうだとしても、貴方の有力な後ろ盾があってのこと。
   いつも娘を大切に想ってくれて、
   情味溢れるお心遣いには感謝しています。
   本当にありがとうございます」
七星 「婦長、頭を上げてください」
美砂子「まだまだ未熟な娘ですが、これからもご指導宜しくお願いします」
七星 「こちらこそ、宜しくお願いします」
美砂子「北斗さん。これは、医療従事者からのアドバイス。
   貴方は忙しい人だから、じっとして居らないかもしれないけど、
   頭を打つと後から恐ろしい後遺症が出ることだってあるから、
   退院しても無理して働かないようにね」
七星 「はい。なるべく、そうします(笑)」
美砂子「ええ。じゃあ、私はそろそろ病棟に戻るわね」
七星 「あの!婦長」
美砂子「はい?」
七星 「いえ、お母さん。
   折り入ってお願いしたいことがあるんですが」
美砂子「ん?何かしら。
   私でお役に立てることかしら?」
七星 「はい!お母さんしかお願いできないことです」
美砂子「そう……」

緊張で顔が強張ってはいるものの、
凛とした姿で話しかける北斗さんに、
母は一瞬びっくりしていたけれど、
その真剣で善良な眼差しに何かを察する。
すぐに仕事の顔から、見守る優しい母親の表情に変わると、
北斗さんのお願い事を嬉しそうに聞きながら頷いていたのだった。



そして私はと言うと、
退院手続きに来た東さんと一階にある総合受付にいた。
手慣れた感じで手続きをする東さんの後姿を見ながら、
長椅子に座ってぼーっとあることを想い出す。


〈星光の回想シーン〉


(TM大学病院新館4階脳外科病棟、七星の病室)


七星「ずっとこうしたかったんだ。
  続きは退院してからな」
星光「えっ」
七星「しかし、本当に残念(笑)」
星光「うん……残念(笑)」
七星「ふっ(笑)そうか。そうだった……」
星光「ん?七星さん、どうかしたの?」
七星「今ね、君の笑顔を撮りたいなって思ったんだけど、
  僕の相棒のカメラ、EOS1DsのMarkⅢにD700。
  あの時に水没したって、思い出したよ」
星光「あぁ……」
七星「愛用のカメラも機材も、冷たいマルセイユ沖に沈んでる。
  (撮影した画像も、だな……)」
星光「七星さん……
  そのカメラもやっぱり、かなり高額なのよね」
七星「まあね(笑)でも、命には代えられないからな」
星光「そう、ね」
七星「んーっ!こうやって生きていて、
  君を抱きしめていることのほうが大事で、何よりも幸せだ」
星光「うん」
七星「元気になったら、また汗水流して動き回って手に入れるさ」
星光「うん……」


長いKissの後、北斗さんは僅かに離れて私を自分の胸へと導く。
私は高揚した感情と身体を必死で鎮めるように微笑み、
彼も同じ心持で、私を見つめ微笑み返した。


彼に抱きしめられながら感じたこと。
心の奥ではとても大きな喪失感を湛えていると。
北斗さんの四半世紀を共に過ごした相棒の一眼レフカメラ。
彼の命も、そして私の命も救われたのは、彼らの犠牲があったからだ。
物言わぬ救世主を、どうにかして北斗さんの許へ返せないだろうか。
今の私には何ができるだろう……



(TM大学病院新館1階、医事課フロア)

東 「星光さん、お待たせ。
  取り敢えず手続きは終わったよ」
星光「お疲れ様です」
東 「七星が待ってる。
  病室に行って荷物を車に積もう」
星光「はい……」
東 「ん?どうした」
星光「あの、東さん。
  七星さんが愛用していたカメラ二台、
  機種はえっと、EO?D……
  んーっ!なんて言ってたかな」
東 「EO、D?あぁ。EOS1Ds MarkⅢとD700のことを言ってる?」
星光「はい!それです。
   そのカメラって、どのくらいするんですか?」
東 「えっ(笑)
  もしかして、本格的にカメラを始めたくなったのかい?」
星光「いえ、そうじゃないんです。
  それと、七星さんの誕生日っていつか知ってますか?」
東 「あいつは9月28日だけど。
  もしかして、プレゼントするつもり?」
星光「はい。今回の事故でカメラも機材も水没しちゃったって、
  七星さん、病室で悲しそうな目で話していたんです」
東 「そうか。それで」
星光「今の私ができることって、それぐらいしかできないもの。
  それに、私を救ってくれた時だって、
  七星さんは東さんから頂いた大切なカメラを犠牲にして……」
東 「星光さん、ちょっと座ろうか」  
星光「は、はい」


心逸る私の背中に手を添えて、
エスコートするように長椅子に座る。
東さんは柔和な眼差しで私を見つめ、
教え諭すように話し出した。


東 「星光さん。
  僕らの仕事はね、そういうことは日常茶飯事なんだ。
  僕だってこれまで幾度となく、
  ぶつけたり落したり三脚ごと倒したり、
  壊しては買い替えて、
  その回数はもう数えきれないくらいだよ(笑)」
星光「えっ」
東 「それに本体は消耗品だから、
  ずっと使っていればいつかガタがくる。
  まぁ、ひとつの金額が高額だから、
  君たちからすればそう簡単に思えないかもな」
星光「はい、思えないです。
  カメラだけでも私の月収の二倍は軽くするし、
  レンズだって数百万もするのもありますよね」
東 「そうだな」
星光「私が知ってるだけでも四台ですもの。
  こんなに短期間に…
  だから大切な相棒を失った悲しみを、
  少しでも取り除いてあげたいんです。
  今は平気な顔して話しているけど、一度は“死”を間際に感じて、
  心身に大きなダメージも受けていますから。
  それで誕生日のプレゼントにできたらと、思って……」
東 「んーっ。
  星光さんの気持ちも分からなくはないが、
  僕は君の考えに賛成しかねるな」  
星光「えっ。何故ですか?」
東 「何故、か(笑)
  男のプライドかな。
  それに、プロのカメラマンとしてのプライドだな。
  特に惚れた女にそういうことされると、
  自分の不甲斐なさを感じる」
星光「は、はぁ」
東 「女の君に理解できないかもしれないが。
  それに相棒と言ったって、単なる仕事道具でもあるから、
  カメラのことは、
  七星自身が手に取って自分の感覚で決めることだ」
星光「そう、ですよね。
  生意気言って、ごめんなさい」
東 「ううん。君の気持ちは分かるし、
  きっと君の心遣いを知れば七星も喜ぶと思うよ(微笑)
  でもそういうことよりも、
  あいつがもっと望むことがあると思うんだけどね」
星光「七星さんが望むこと?」
東 「そう。君にしかできないこと。
  これ以上は僕の口からは言えない。
  後は、星光さんが七星の傍に居て、
  あいつを知れば知る程、自然と分かってくると思うよ」
星光「は、はい……
  (私にしかできないことって、何だろう……)」


ずっと私なりに考えていた北斗さんを元気づける方法だったけれど、
東さんの意見を聞いて頓挫する。
でもその言葉は、
プロの写真家として説得力があり反論の余地もなかった。
今の私に何が出来るのか、北斗さんが何を望んでいるのか、
再び答えの見えない迷路に迷い込んだようだった。

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