玄海の海は空の色を映してより深く沈み、
北から吹きつける風に大きくうねりながら、
波頭を白く煌めかせている。
目が痛くなるほど眩しく光る夏の太陽と、
鮮やかな海風にさらされた私の身体は、
皆の期待と再会の喜び、
いきなり飛び込んできた幸せに慄いていた。
暫く海を眺めていたけれど、
後ろから誰かがやってくる気配を感じる。
それは“なごみ”の後継者である琥珀(こはく)さんだった。
彼女は笑顔で挨拶すると私の隣に腰かけ、
同じように煌めく海を見つめている。
琥珀「星光さん、大変だったわね」
星光「えっ?」
琥珀「つねおばあちゃんから聞いたの。
恋人が事故に遭ってフランスへ行ってたって」
星光「(恋人……)
彼は、恋人ではないんです」
琥珀「そうなの?」
星光「はい」
琥珀「フランスはどうだった?って聞いても、
とても観光気分じゃないわよね」
星光「そ、そうですね」
琥珀「実はね、星光さんさえ良かったら、
継続で働かないかなって思って」
星光「えっ。私がですか」
琥珀「ええ。
敦くんは変わらずこのまま働くことになってるんだけど、
彼一人で厨房は大変だしね。
つねおばあちゃんも高齢で、ずっと働くのは無理だと思うから、
慣れた貴女が居てくれたらとっても心強いのよね」
星光「琥珀さんがお料理するんじゃないんですか」
琥珀「あぁ。私には本業の陶芸があるから、
なごみの経営者にはなったけど、
裏の工房が完成したら今まで通り、食器作りに専念するのよ。
だから、星光さんがこのまま働いてくれると助かるんだけどな。
それに私は料理が大の苦手で、もっぱら食べる人かな(笑)」
星光「あぁ……」
琥珀「お給料はしっかり払うわ。
星光さんの希望があるなら遠慮なく言って?
貴女、お客さんからの受けもいいし、
仕事ぶり見ててもテキパキ熟してて頼りになるもの。
できたら私と一緒に“なごみ”を経営してほしいの。
お願い。ここに居てくれるでしょ?」
星光「……」
懇願し両手を合わす琥珀さんの突然のオファーに驚きながらも、
落ち着き払った私の心はまったく動揺することはない。
そしてぼんやりと返す波間を見つめていると、
安心感のあるどっしりとした声が頭を過ぎる。
神道『忘れるなよ。君は休職中で、うちの社員だからな』
私は、神道社長の言葉を想い出すと僅かな微笑みを浮かべて、
その声に後押しされるように彼女の問いに答えた。
星光「琥珀さん。とっても嬉しいお申し出なんですけど、
私は今…本業を休職してるんです」
琥珀「えっ?星光さんってどこか他にお勤めしてるの?」
星光「はい。私、スターメソッドの社員なんです」
琥珀「えっ(驚)あの、大会社の!?」
星光「はい!」
力強く自分の心に諭し聞かせるように言い放つ。
『スターメソッドの社員』だと言い切ると、
自分の進む道も居場所も鮮明に見えたのだ。
私はその1週間後、“なごみ”の仕事をすべて終わらせて、
北斗さんの居る東京へ戻っていったのだった。
達成感を湛えたまま、私は両親の待つ吉祥寺の家へ帰宅した。
母も父も、大きな荷物を抱えて玄関に立つ疲れ果てた娘に、
多くは語らずだったけれど、
いつもと変わらない笑顔で迎えてくれたのだ。
翌日。私は神道社長に連絡した。
大海原を見ながら出した答えを…
すると神道社長らしく即座に私を受け入れ、
何事もなかったように早速新たな仕事を言い渡す。
その仕事内容は、帰国してからずっと、
北斗さんの付き添いをしている流星さんと、
交代してほしいというものだった。
私は迎えに来てくれた東さんと一緒に、
北斗さんと流星さんの待つTM大学病院へ向かう。
(東の車の中)
東 「実家へ帰ったばかりなのにすまないね。
事故の件で流星がずっと留守にしていたもんだから、
福岡支社でちょっとしたトラブルが発生してね。
流星が直接関わらないと、どうにも収拾がつかないんだ」
星光「いえ。私も、七星さんのことが気になっていたので」
東 「そうか…(微笑)
そうそう、七星のことなんだけど」
星光「はい…。七星さんがどうかしたんですか?」
東 「来週、退院が決まった。
かなり体調もいいみたいだから、
通院しながら自宅療養でいいらしいよ」
星光「そうなんですね!良かったー」
東 「星光さん、君のお蔭だよ」
星光「いえ。それは、七星さんの力強い生命力があったからで」
東 「それだけじゃない。
あいつを見守る君の深い愛の力があったからだ。
京都で撮影した君の写真を見た時もそう思った。
この女性なら、七星の横にしっかり立てるってね」
星光「東さん」
東 「星光さんが勝浦から居なくなった時もそうだったが、
君が福岡から東京に来る時も、
あいつは社に帰ってきて僕の顔を見るたびに、
『あの子から連絡なかったか!』
『ここに訪ねてこなかったか!』って、
仕事の報告もそっちのけでね。
僕が誰からも連絡もなかったし、
訪ねてもこなかったと返すと、
カメラを抱えたまま、荷物も降ろさずに、
この世の終わりみたいな顔して突っ立ってる(笑)
あいつとはもう長い付き合いだけど、
あんなに取り乱す七星を、僕は今まで見たことがなかったよ」
星光「はぁ……」
東 「それに、恋愛相手のことで僕に相談するなんてことも、
これまで一度もなかったからな。
君のことがとても大切で、
七星には必要な人なんだと思ったんだ。
これからも、あいつのこと頼むね」
星光「はい。(東さん……)」
東さんから教えられた私の知らないもうひとりの北斗さん。
でもその顔は、私の心に熱いものを感じさせるものだった。
病棟の休憩所で東さんと私を待っていた流星さんは、
久しぶりの私を爽やかな笑顔で迎えてくれた。
フランスから連日の看病のせいか、
それとも安堵から急に疲れが出たからか、
流星さんが少し小さくなったように感じ取れる。
彼は数十分だけ私と言葉を交わすと、
入れ替わるように東さんと共に病院を後にした。
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