一瞬、何が起きたのか分からなかったけれど、
それは紛れもなく北斗さんの声だった。
流星さんは私を支えながら立ち上がり、
離れるとゆっくりベッドへ近づく。
ふらふらしながらやっとのこと立っている私は、
驚きと突然の出来事にすぐに動くことができなくて、
その場に茫然と立ったまま、
流星さんの後ろ姿と横になっている北斗さんの左手を見つめた。
やはりその指先は微かに確かに動いている。


流星「兄貴?」
七星「……」
流星「兄貴、俺が分かるか?」
七星「……」
流星「兄貴!」
七星「流星……」
流星「兄貴……気がついたんだな!
  本当に気がついたんだな!」


泣きながら北斗さんの手を握る流星さんの必死の呼びかけに、
始めは焦点の合わない顔つきの北斗さんだった。
けれど大きな息をした後、二回程ゆっくりと瞬きをした。
そして夢を見ているような表情から、緩やかに安らかな笑みへと変わる。
流星さんは腕で涙を拭き、傍観する私の傍に来て肩に手を回すと、
ゆっくりとベッドに居る北斗さんへと導いた。


流星「星光ちゃん!
  ほらっ、兄貴が戻ったぞ!」
星光「戻った……」
七星「……」
流星「俺、看護師を呼んでくるから兄貴を頼むな!」
星光「は、はい」
流星「すぐ戻ってくる!」


椅子に掛けてあったショルダーバッグから携帯を取りだすと、
流星さんは慌てて病室を飛び出していった。
もしかしたら、これは夢かもしれない。
さっきのように涙ながらに問いかけても、
答えてはくれないかもしれない。
病室に残された私は、目を瞑る七星さんに恐る恐る声をかけた。
すると微かに彼の目は開き、少しだけ左を向くと口を動したのだ。
私の耳に聞こえたその声は、
まだ充分とは言えない弱々しいものだけど、
確かに北斗さんの生還の声だった。
私はその言葉をもらすまいと、
覗き込むように彼の顔に近づき名前を呼んだ。


星光「七星さん?」
七星「やぁ。星光ちゃん……」
星光「七星さん。あぁ。気がついてよかったぁ……」
七星「君が……居るってことは、ここは、日本?
  僕は、東京に……戻ったのか」
星光「ううん。ここはフランスのマルセイユよ。
  七星さんは、撮影の移動中に事故に巻き込まれたの」
七星「撮、影?……そうだ。料理の撮影は……
  思い切り寄って、皿を切る。
  フラッシュは……使わない」
星光「えっ」
七星「光は、逆光で……アングルは、
  斜め上、45度から撮る……
  すると、料理は……新鮮で、みずみずしく、
  綺麗に、撮れるんだ……」
星光「七星さん?」
七星「僕は、ベジタリアンじゃないから……
  食べに、行こうな、一緒に……」
星光「七星さん……私の話、聞こえてたの?
  私のくだらない話を、ずっと聞いてくれてたの?」
七星「聞こえて、いたよ。星光ちゃん。
  僕は……傍に居るから、もう……泣かなくていい」
星光「うん。うん……」
七星「星光ちゃん……もう、居なくなるな……
  ずっと……僕の傍に……居てほしい」
星光「七星さん……うん。
  私、もう逃げたりしないからね」
七星「あぁ……」

私の頬を触れる大きな手。
決して滑らかな動きではない北斗さんの左手は、
スローモーションのように私の頬に触れる。
そして流れ落ちる涙を優しく拭った。
北斗さんの冷たい指先の感触と発せられた一語一句が心にしみて、
喜悦の情で胸がいっぱいになった私は、
彼の左手を握りしめると祈るように泣き伏した。
私を見つめる彼の優しい微笑が何より嬉しい。


星光「七星さん、ありがとう……
  (あぁ、神様。七星さんを助けてくれてありがとう。
  そしてお母さん、ありがとう。
  お母さんの言った通り、私の声は彼に届いてたよ……)」



当直の医師と看護師が数名、病室に駆けつけると、
北斗さんの奇跡的な回復に一瞬驚きの声が漏れた。
すぐに診察を始め、手際よく適切な処置が行われる。
医師の問いかけに弱々しく答える北斗さんの声がすると、
看護師の顔にも安堵の表情が窺え、
皆がハグし合い拍手しながら喜んだ。
私は病室の隅で両手を合わせ、
彼に治療を施すスタッフに心から感謝した。
間もなくして、連絡を終えた流星さんが戻ってくる。
すぐ駆け付けた浮城さんやカレンさんは、
嬉し泣きしながら北斗さんに詰め寄り、
時間差で病院に到着した東さんと神道社長も、
彼の手をとりながら喜びの表情を浮かべた。
北斗さんの声と共に色彩を取り戻した病室は、
歓喜が怒涛のように押し寄せ、
華やいだ空気へと変わっていったのだった。



翌日。北斗さんの精密検査が行われ、
医師から移送OKの診断を貰った神道社長は、
即座に日本のサポートスタッフの派遣を要求する。
二日後、海外医療支援の専門医が到着すると、
すぐさま帰国支援の活動が行われた。

東さんはフランスに残り、
浮城さん、カレンさんと共に事故処理の仕事へと戻ることとなる。
私は、流星さん、神道社長と、
搭乗手続きを済ませると三人に挨拶をした。


(シャルル・ド・ゴール国際空港、出国ロビー)


星光 「カレンさん、浮城さん。本当にありがとうございました。
   お世話になりました」
浮城 「星光ちゃん。こちらこそ、カズのことありがとう。
   お母さん、ナイスアドバイスだったな」
星光 「はい(微笑)」
カレン「星光さん、また暫くお別れね」
星光 「カレンさん、本当にありがとうございました」
カレン「こちらこそ。貴女の頑張りには脱帽したわ。
   貴女の声が、本当に昏睡状態だったカズに届くなんて」
星光 「カレンさんや皆さんの支えと母のお蔭です。
   それに、七星さんの生命力……」
カレン「そうね。でも、それだけ貴女の愛が深いってことよ。
   これからはカズをしっかり支えてあげて。
   もう二度と握った手を離しちゃだめよ」
星光 「はい」
カレン「元気でね。根岸くんの結婚式でまた会いましょう」
星光 「はい。カレンさんもお元気で。浮城さんとお幸せに」
カレン「ありがとう」
星光 「東さん、お世話になりました。
   本当にありがとうございました」
東  「こちらこそ、ありがとう。
   君のお蔭で、七星は助かったよ」
星光 「いえ」
東  「僕ももう一仕事終えたら、すぐ日本に戻るから、
   帰ったらゆっくり話そうな」
星光 「はい」
神道 「星光さん、そろそろ行くぞ」
星光 「はい。では、失礼します」
東  「気をつけて。七星を頼むよ」
星光 「はい(微笑)」


カレンさんは、涙ぐみながら飛びつくように私にハグをした。
そして出国審査を終えた私たちの姿が見えなくなるまで、
ロビーで手を振っていた。
ストレッチャーに横になった北斗さんは、空港まで救急車で搬送され、
空港に到着すると、派遣された専門医師や看護師数名が付き添い、
リフトローダーで機内に搬入される。
機内に入ってからも、医師たちは病態を慎重に観察しながら添乗し、
飛行機の乗務員達も心優しく北斗さんを見守っていた。
そしてすべての準備が整ったジェット機は、
シャルル・ド・ゴール国際空港のターミナルを離れ、
羽田に向けて飛び立ったのだった。


12時間40分のフライトを終えて羽田に到着すると、
大学病院の救急車が準備をして待っていた。
北斗さんは皆が見守る中、
流星さんと医師に付き添われながら救急車に乗り、
何事もなく新宿のTM大学病院へ搬送された。
そして私は、神道社長の車で病院へと向かったのだ。


フランスから帰国して1週間後、私は福岡の地へと戻っていた。
つねばあちゃんや敦くんとも真面に話せないまま、
荷物もほったらかし、
仕事も途中で投げたままでフランスへ向かったからだ。
糸島へ戻ると、二人はとても喜んで温かく迎えてくれた。
しかし、私が出た時とひとつ違っていたのは、
なごみの裏にある空き地に、
建築途中のログハウスが建っていたことだ。
次のオーナーの作業場ができるのだと、後に敦くんから聞かされる。
私は久しぶりに岩の上に座って、遠い目をして玄界灘を眺めていた。
転院した病院のベッドで眠る北斗さんの顔と、
病院へ向かう車の中で言われた、
神道社長の言葉を想い出しながら……


〈星光の回想シーン〉


(神道の車中)


神道「星光さん。また福岡へ戻るのか」
星光「はい。あと少しですけど、まだ民宿のバイトが残ってるんです。
  荷物もそのままで慌ててフランスへ行ったもので」
神道「そうか。今から話すことは、
  日本を出るときには言えなかったことなんだが、
  君が退社手続きをした時に、
  パスポートを渡さなかったのには理由がある」
星光「理由、ですか?」
神道「ああ。実は、君はまだうちの社員なんだ」
星光「えっ!?それって、どういうことですか」
神道「七星と流星から、
  君を解雇しないで休職扱いにしてくれと懇願されてね。
  七星がフランスに行く前日、
  『君と重なるとき』という写真集を持ってきた。
  写真集に使用した写真は君が撮ったものもあって、
  こうやって裏紙面に名前が載るくらい、
  彼女はうちの歴としたカメラマンだと言ったんだ」
星光「カ、カメラマンなんて(焦)そんな恐れ多いです!
  私はただ、東さんに教えてもらったままシャッターを押しただけで、
  流星さんから渡されるまで、
  それが作品になるなんて思ってもいませんでした。
  それこそ誰にでも綺麗に撮れるカメラのお蔭で、
  私なんて、カメラのことなんてまったく分からないド素人です」
神道「それでも、作品は世に歩き出している」
星光「……」
神道「それに、七星の意見を傍で聞いていた流星や根岸も、
  彼と同意見でね、
  その後すぐに、陽立、カレン、根岸、田所、
  勝浦にいたスタッフ全員から嘆願書が出された。
  それから村田に限っては、君を是非秘書に推薦したいと言ってる。
  同じ土俵で一緒に私を支えたいと、
  潤んだ目で縋って懇望されたよ」
星光「私が秘書!?
  (苺さん……)」
神道「これだけ多くの社員から慕われている人間を、
  私は無下に解雇はできないんでね。
  それに、私は信頼する社員から恨まれて、
  話の分からない上司のレッテルを貼られたくない。
  それで君を休職扱いにしたんだ。
  だからパスポートも、当然渡さずにいたわけだ」
星光「そんな……」
神道「こんな短期間で皆から寵愛を受けるなんて、
  君は勝浦でどんな仕事をしていたんだ?(微笑)」
星光「……」 
神道「どうだろう。
  民宿の仕事を終えたら、うちに戻ってこないか?」
星光「あ、あの、神道社長。
  もう少し考えさせてください」
神道「いいだろう。ゆっくり考えろ。
  でも、忘れるなよ。
  君は休職中で、うちの社員だからな」
星光「神道社長……」


玄海の海は空の色を映してより深く沈み、
北から吹きつける風に大きくうねりながら、
波頭を白く煌めかせている。
北斗さんから発せられた声なき声『Stand by me』
目が痛くなるほど眩しく光る夏の太陽と、
鮮やかな海風にさらされた私の身体は、
皆の期待と再会の喜び、
いきなり飛び込んできた幸せに慄いていたのだった。

(続く)


この物語はフィクションです。