壁に凭れ待っていたカレンさんと浮城さんの前を、
話しながら通りすぎた看護師たち。
ひとりの看護師が覗き窓から北斗さんの病室をちらっと見て、
すれ違いざまにぼそっと話した内容を聞いていた、
カレンさんの顔色が急に変わる。
そして、看護師ひとりを透かさず呼び止めて、
堪能なフランス語で淡々と話しかけた。


看護師A「4Aの11?海難事故の負傷者ね」
看護師B「救急搬送されたとき、
   トリアージ・タッグがレッドだった日本人の患者よね」
看護師A「ERに入った時はCPAだったって、ニコールから聞いたわ」
看護師B「そう。それじゃ回復は難しいかもね」
看護師C「そうね。あの日は私もERに入ってたんだけど、
   drowning(ドゥラウニング…溺水)の状態で運ばれたみたい。
   低酸素性脳症による意識障害や、
   肺の末梢血管の透過性亢進によるARDS、
   肺感染症の可能性もあるからって、
   カール先生が慌てて処置していたもの」
看護師A「カール医師って、脳外科で臨床研修中の?
   彼、ERにも入ってたんだ」
看護師C「ええ。あの日は他からも搬送患者が来て、
   ERはごったかえしてたから、
   スタッフが足りなくて駆り出されたんじゃない?
   何とか捌ききったんだけど、大変だったみたいだわ。
   submersion(サブマージョン…浸漬)でも、
   immersion(イマージョン…浸水)でも、
   臨床的にはほとんど変わらないもの」
看護師B「どちらにしても予後不良ってことでしょ。
   もつかしら。蘇生できただけでも奇跡よ」

カレン「貴女、ちょっと待って」
看護師B「はい。私に何か」
カレン「今の話、北斗七星のことよね」
浮城 「お、おい。カレン。どうした?」
看護師A「えっ。あの、貴女は?」
カレン「4Aの11。この病室に入院してる北斗七星の身内よ。
   回復が難しいってどういうことよ」
看護師B「あ、あの、患者さんの詳しい病状は、
   担当のドクターがお答えしますから」
カレン「つい今し方、私たちの前で、
   貴女が世間話のように言っていたことよ。
   予後不良!?『もつかしら』ってどういうことなのよ!
   助からない患者のことなら、
   どこでどう話そうといいってわけ!」
看護師B「私はそんなつもりじゃ……」
カレン「私の質問に答えなさいよ。
   この病室の中では、
   最愛の人の横たわる姿を見て泣いている人間がいるのよ!」
看護師A「す、すみません。
   私たちの担当ではないので詳しいことは。
   今から担当医かここのナースをお呼びますので」
カレン「貴女たち!説明できないんだったら、
   患者の身内の前で、あんな無責任なことを言わないことね!」
浮城 「カレン、やめないか!
   すみません。
   僕からよく言って聞かせますから、
   どうぞ構わずに仕事に戻られてください」
看護師B「こちらこそ、すみません。失礼します……」
看護師C「あれ、なんなの?」
看護師A「恐いわねー」
カレン「陽立!どうして止めるの!?」
浮城 「君こそ、
   いきなり看護師を捕まえて怒鳴り散らしてなんなんだ」



私はカレンさんの荒らげる声を聞き、
北斗さんの手を優しくベッドに戻すと、ゆっくり立ち上がる。
そして、ドアを少し開けて廊下の様子を窺った。
掴みかかる勢いのカレンさんは涙を浮かべ、
制止する浮城さんに抑えられながら看護師たちに叫んでる。
看護師たちは浮城さんに促されて、
ぼそぼそ話しながら、
そそくさとエレベーターのある方へ立ち去っていった。



浮城 「ここは病院なんだぞ。すこし落ち着け!」
カレン「陽立はさっきの会話聞いてなかったの!?」
浮城 「俺は、フランス語で話されても解らないからな。
   彼女たちが何を話していたかなんて理解できないよ」
カレン「カズが救急搬送された時、
   『トリアージ・タッグがレッドで、ERに入った時はCPAだった』だの、
   『4Aの11の患者は、予後不良だからもつかしら。
   蘇生できただけでも奇跡よ』だの、
   彼女たちは平然と話していたの。
   正に私たちの目の前で、治療後の回復が見込めないって言ったの!
   つまりカズはこのまま目を覚まさないって話していたのよ!
   そんな大変なこと、
   世間話の様に言われて冷静でいられるわけないでしょ!」
浮城 「もしそうだとしても!
   落ち着かなきゃいけないんだ。
   俺たちだけは」
カレン「陽立は平気なの!?」
浮城 「平気なわけないだろ!
   俺は、医師の説明を聞いてる東さんと流星の口から、
   本当のことを聞くまで、カズの回復を信じて待ってるだけだ」
星光 「カレンさん。浮城さん」
カレン「あっ!」
浮城 「星光ちゃん……」
星光 「あの、カレンさん……
   七星さんは回復は見込めず、目を覚まさないって、
   本当なんですか?」
浮城 「星光さん。それはね」
カレン「聞いていたのね」
星光 「そんなの、うそ……」
浮城 「星光ちゃん!くそっ!
   カレン、カズを見てろ!」
カレン「星光さん……」



私は病室を飛び出し、
ナースステーションの前を小走りに通り過ぎて、
病棟の一番奥にある、
非常口であろう緑の標識が書かれた分厚いドアを押し開けた。
浮城さんもすぐに私の後を追いかけ、
一度ドンッと閉まったドアを開ける。
4階と3階の間にある踊り場で、私は蹲り口を押えて泣きながら、
震える手でジーンズのポケットから携帯を取り出した。
そして座り込んだまま、東京に居る母に電話したのだ。
5回コールした後、優しい母の声が聞こえ、
私は藁をもすがる思いで話し出した。
追いかけてきた浮城さんは不安そうな表情を浮かべて、
私の情けない姿を見下ろし、手すりに掴り見守っている。


(Y・マルセイユ総合病院4階。非常階段)



美砂子『もしもし?』
星光 「もしもし、お母さん」
美砂子『星光、メール見たわ。
   無事フランスに着いたのね』
星光 「お母さん!お願い、助けて……
   七星さんが、七星さんがぁ。うぅ……」
美砂子『星光!?北斗さんがどうしたの!?』
星光 「七星さんが、このまま目を覚まさないかもしれない。
   “トリアージ・タッグがレッド”って何?
   CPAってどういうことなの?」
美砂子『誰がそんなことを言ったの』
星光 「ここの病院の看護師さんたちが言ってたって、
   カレンさんが……」
美砂子『星光。落ち着きなさい。
   動揺する気持ちはわかるけど、そうしないと話ができないわ』
星光 「お母さん、私はどうしたらいいの」
美砂子『いい?今、北斗さんは必死で生きる闘いをしてるの!
   貴女の声は、目を閉じている北斗さんに届いているのよ?
   貴女が彼の傍で泣いていたり悲しんでいたら彼は闘えないわ。
   不安なら、私が知ってることは教えてあげるから、
   今の北斗さんの状態を教えてちょうだい』
星光 「うぅ……」
美砂子『星光?』
星光 「……」
美砂子『星光、貴女は私の娘なのよ!
   しっかりなさい!』
星光 「お、お母さん」


取り乱し泣きじゃくる私に、
電話先の母は喝を入れるように強い口調で返した。
その言葉を聞いているうちに、
私の心は少しずつ落ち着きを取り戻す。
私は北斗さんの様子と、廊下で起きた出来事を母に説明した。

(2ページ目へ)