いつのまにか、日が傾いていた。姫は、相も変わらず窓の外を見ている。

「珍しいかい」

姫は、軽くうなずいた。窓の外には、高い塀はあるものの、かろうじて狭い夕空が見えていた。

「この部屋で、時間がわかるのはこの窓だけなんだ。私たちは、時間に追われて生きなくていい。作業も免除、本でも読んで好きなことをしていればいい。追ってくるのは、時間じゃなくて、死神だからな」

y一五番は、自嘲気味に笑った。姫は、まつ毛を伏せた。そのまとっているモーヴカラーの薄絹の衣装が、彼女によく似合った。y一五番は、彼女の胸元に飾られた美しいバラの造花の花びらが折れているのに気付いて、手を差し伸べて元通りに直してやった。姫の顔が、ぱっと明るくなった。姫は、まっすぐy一五番の顔を見据えた。その目からは、笑みの結晶がこぼれ落ちるようだった。

「……」

姫は、ちょっと腰をかがめてお辞儀をした。その様が、とても優雅だった。y一五番は、目を細めた。

(こんな、可憐な妹がいればな……)

  そして、窓辺に戻った姫を見ながら、y一五番は、配膳された今日の夕飯を、独房の扉に備え付けてある配膳台から受け取った。配膳係は、囚人が務めるのだが、獄内で連絡を取ることがないように、その係が誰なのかはわからないようになっている。だが、今日は違った。係は、食事を届けた後、禁止されている置手紙をこっそり置いて行った。

 「『遺声(ゆいせい)』――鍵の言葉を言わせるな。言えば、姫は死ぬ」

 y一五番は、その油に汚れて湿った紙切れを読むと、丁寧にたたんで、文机の上の本の間に挟んだ。

 (「遺声」……鍵の言葉……。そんなものがあるのか。自害用のものなのか。とにかく今、姫に死なれては困る。声を出させつつ、「遺声」は言わせないようにしよう)

 そこまで考えた時、y一五番の胸にふっと疑念が浮かんだ。

(「斬声の血族」について、ここまで知っている囚人……誰だ?)

その疑念は、食事中も、姫が寝入った後も消えることなく、y一五番の胸の中でくすぶり続けた。それでも、夜の眠りは、y一五番のまぶたの上にも、等しく夢の覆いをかけてくれた。彼は、深い眠りについた……。

「起床! 」
朝になり、どこか眠たげな刑務官の声が、監獄に響く。もの慣れた者は、既に起きて洗面くらいはすませている。なにしろ、いつお迎えがくるかわからないのだ。自分の時間は大切にしたい。そんな囚人たちの知恵だ。

 y一五番も、例にもれず、ずいぶん前から起きていた。そして、備え付けの割れない鏡を見ながら、簡単に髪に櫛目を入れる。窓からは、ようやく薄暗いあかりが入ってくるくらいだ。――今は、だいたい六時といったところか。y一五番は、独房の隅で、ぼろきれを重ねたシーツに、男物の洗い立てのシャツを枕にして、姫がまだ寝息を立てていた。そろそろ起こさねば、と思っていたころに、サライがやってきた。

「y一五番、娘はどうか」

「変わりなく」

「そうか」

 サライは、寝ている姫を見て、かすかに笑った。

「信用は、得たようだな。では、健闘を祈る」

彼らが去った後、朝食の配膳が行われた。アルミの食器とトレイを配膳口に出すと、係が鉄製の鍋からスープを注ぎ、皿にはこちこちになったパンを置いてくれる。カップには、薄いコーヒーだ。y一五番は、昨日のことを覚えていたので、配膳係の囚人がまた忠告してくれるのではないかと期待していた。果たして、置き手紙はあった。

 「「遺声」は、代々受け継がれるものではない。その時代の姫一人につき、一文言と決まっている。早く突き止め、言わせないようにせよ」

 y一五番は、またもそのしみだらけでインクがにじんだ汚い紙切れを読むと、丁寧にたたんで、例の本にはさんだ。ここまで来れば、この謎の囚人は、姫の味方だ。姫の味方が、監獄にいる……これを、姫に伝えるべきなのか、彼は迷った。だが、伝えれば自分を信用して声を出してくれるかもしれない。y一五番は、姫を起こすと、思い切って姫に切り出した。

 「姫。あなたの味方が、この監獄にいる。あなたはひとりではない。安心したかい? 」

 姫は、悲しそうに頭を振った。覚えがないらしい。

 (さて……この囚人はいったい誰なのか……)

 そんな考えを抱きつつ、y一五番は「遺声」について聞いてみた。

 「遺声――本当に、そんなものがあるのかい」

 姫は、はっとしたようだったが、かすかにうなずいた。

 「私は姫を死なせはしない。だから、「遺声」を言うようなことはしないでほしい。姫は声が枯れれば生きられ、私は斬声を受け止めきれば生きられる。だから、私に刃を向けてくれ」

 姫は、悲しそうに、波打ち際に散らばる貝殻のようなきらめきを放つ、耳飾りを揺らした。そして、y一五番の耳に、シュッと薄い刃が空気を切り裂いたような感触が、かすめていった。彼の耳たぶからは、鮮血が流れた。姫が、かすかにうめいたのだ。そのうめき声は、厳重な鉄と合金でできたマスクを、ベルトで幾重にもまくという厳重さにもかかわらず、音波として漏れ出て、その波状の音は、姫の能力により、刃に変じて、y一五番の耳元をかすめて傷を負わせたのだ。

 y一五番の耳から滴り落ちる血を止めようと、姫は薄い衣装を破いて、簡易の包帯を作った。そして、涙をこらえながら、姫は手厚い看護をした。

 (これが、『斬声』……。確かに、これは殺人能力になりうるだろう)

 看護を受けながら、y一五番は考えていた。そのとき、音がした。音には敏感になっているy一五番だが、その音は、刃に変じる鋭さは持たず、むしろまろみをもつやさしい音だった。見ると、包帯を留めようとする姫が、恥ずかしそうにうつむいている。

 (そうか、姫の腹が鳴ったのか)

 昨晩、姫は夕飯を摂る前に疲労で寝てしまった。今日は、食欲もありそうだ。y一五番が、マスクを取ってあげようとすると、姫はちょっと笑って制止した。そして、おもむろに肩までの長さの漆黒の髪を、頭皮が見えるようにふたつに分けた。そこからは、小さな口が現れた。y一五番は驚愕したが、狼狽を顔に出すことはしなかった。これは、他者を傷つけ殺める「斬声」をできるだけ封じるために、人間と違う進化を遂げた一族の、悲しき差異なのだ。

y一五番は、朝食を机の上に並べた。二人きりの食事の時間が始まった。会話はない。ただ、姫とy一五番が、パンにかじりつき、スープの具を確かめるためにスプーンでちょっと混ぜてみたり、コーヒーをすすったりするだけだ。姫は、パンをちぎって、髪に隠れた口にそっと入れている。コーヒーやスープは、y一五番が後ろの口に少しずつ注いであげた。無言でも、彼らの顔つきは明るかった。食事中に、ナプキンの位置がずれれば、y一五番が直してやり、彼が食器を落とした時には、姫が席を立って拾い集める。


 そうやって、いつのまにか、二人の間には、無言の絆が生まれつつあった……。