痺れを切らしたのは、私でも啓さんでもなく、カイだった。
「ウォン!」とひと吠えして、早く行くべ!と言わんばかりにリードを引っ張り出したのだ。


そこでよくやく私たちも合わせていた視線を散らす。


「ごめん、カイ」


啓さんが謝って再び歩き出した。
その後ろを慌ててついていく私。


頭の中は完全にパニック状態だった。


今のは何?今のは何?今のは何?
ホッとするってどういう意味?
麗奈さんは?私はどうなるの?
特に意味は無いの?
ただ単に犬みたいな女だから、犬の頭を撫でるみたいに私の頭を撫でただけ?


お祭り騒ぎの心臓と格闘していたら、啓さんが振り向いて何かを体に巻き付けてきた。
彼が首にぐるっと巻いていた黒いマフラーだ。


「寒そうだわ。こんな所に連れ出して悪かった。戻ろう」


はい、と返事をした。
しかしきっと私の顔はだいぶ赤くなっていたんじゃないかな。暗くて見えなかったと思うけど。
こんなことを男の人にしてもらったのは初めてだったから。
啓さんはちっとも動じてない、いつもの顔だったから感情が読めなかった。


風通しの良くなった彼の首元には、もうマフラーは無い。私の体に巻き付いている。
その後ろ姿に、無言で話しかける。


ねぇ、啓さん。
そういうことは彼女じゃない人にしちゃいけませんよ、と。


もしも明るいところで、あの綺麗なビー玉みたいな青い瞳に映る自分を見たなら。
私は全身が心臓になって、面白いくらいに強く強く脈打ってどうにもならなくなるだろうな。


ひんやりとした寒空で、空を見上げる。
そこには、満天の星空が浮かび上がっていた。


それを見て、怜と別れた日のことが脳裏に浮かんだ。
あの日の夜も、東京で夜空を見上げたんだ。
星がほとんど瞬かない、そんな夜空を━━━━━。


やりたい仕事をしてる。
少しずつ責任ある仕事を任せてもらえるようになった。
早起きも苦じゃない。
優しい人たちに囲まれている。
美味しいものを毎日食べられる。
澄んだ空気と自然を感じられる。
夜空の星が綺麗。


好きな人がいる。


たくさんある中の、ひとつ。


啓さんの存在は私がここにいる意味の、大事なひとつなのだ。