「こっちだ!!」
急にはっきりとした男の声が響いた。
人間と同じようでいて、まったく異なる響き、けれどもそれは思葉にとって親しみのある声だ。
視界の先に一筋の小さな光が差すのが見え、そこに誰かが一人立っていた。
群青色の水干に霞色の小袴を纏った、月白色の長い髪をもつ長身の青年が、こちらへ来いと手招いている。
「玖皎!」
思葉はたまらず名前を叫んだ。
光の元にいる霧雨玖皎が、自分の存在をつなぐ何よりのものだと思えて一気に安心した。
伸ばされているあの手に掴まれば助かると、必死の思いで地をける。
「急げ、奴が来る!」
思わず後ろを見ると、不気味な触手は思葉に迫っていた。
思葉は頭を左右に振って玖皎を見つめ、手を伸ばした。
早くこの手を掴んで欲しい。
いや、それよりも、早く自分の名前を呼んで欲しい。
玖皎の名前は分かったが、やはり自分自身を示す名前はどうしても思い出せない。
「玖皎、玖皎……っ!」
そう伝えたいのになかなか言葉が出てこなくて、玖皎の名前を繰り返すしかなかった。
徐々に距離が縮まり、眩しい光の中から手を差し延べる玖皎に近づいてゆく。
あと少しで手が届くところまで来て、思葉はびたりと足を止めた。
伸ばしかけた腕を胸の前に引き寄せて、静かに玖皎を見る。
「何をしている、早く来い。
おれはここよりそちらへは行けないんだ」
玖皎が顔をしかめて、早く掴めと腕を示す。
だが思葉は動けなかった。
目の前に立っている玖皎から違和感をおぼえたのだ。
「早くしろ!」
「う、うん、だけど……ねえ、玖皎、今すぐあたしの名前を呼んでくれない?」
「そんなことをしている場合ではないだろう。
すぐそこまで追っ手が来ているんだぞ」
「わかっているよ、でも、どうしても呼んでほしいの。
お願い玖皎、あたしの名前を呼んで」
「名前なんかどうでもいいだろう、いいから早くこちらへ来い!」



