思葉は化粧台の前に座って髪をとかしていた。


この化粧台は思葉の祖母が幼いころからずっとあるものらしく、一人暮らしをする際に母から譲られたものだ。


淵は少し錆びついているがまだまだきれいに映してくれる。


化粧台の前に座ると、懐かしいにおいがふわりと鼻腔をくすぐってくれる。


家族と一緒に過ごしていた家の懐かしい木の匂いだ。


辛いことや悲しいことがあっても、ここに座ればその気持ちがいくらか和らいだ。


緊張しているときや不安になったときも、この匂いをすいこんだら少しだけ勇気がわいた。


だから、この狭い部屋で思葉がいちばん好きな場所はここなのだ。


鏡に映る自分の姿は、どういうわけか顔のあたりに白い霞のようなものがかかっていてまったく見えない。


でも、なぜか思葉には自分の表情が分かった。


思葉は今、とても幸せな気持ちで髪をとかしている。


だってこれから、大好きな彼と一緒に出掛ける約束をしているのだ。


わくわくしてくるのは当然である。


こうして彼と約束をして、一緒に過ごすのは本当に久しぶりだ。


お化粧の道具を手に取っている間も、ついつい顔がにやけてしまう。


どんな話をしようか、歩いているときは思い切って手をつないでみようか。


彼はどんな格好で会いに来てくれるのだろう、自分を見たときどんな表情を浮かべてくれるだろう。


そんなことを考えるだけで嬉しくなってしまう、本当に幸せだ。


赤い口紅を塗って、服の襟元を整える。


お化粧をした自分はいつもより大人っぽくて少しかわいく見える、これなら彼と会っても恥ずかしくないだろう。


最後にもう一度髪を整えていれば、玄関のベルがチリンと鳴る。


彼が迎えに来てくれたようだ。



「大丈夫よ、×××、今日もかわいいよ」



鏡の中でにっこり笑う自分に言いかけて、思葉は鞄を取って玄関に向かった。


翻ったレトロなワンピースの裾を見ながらぼんやりと思う。





――今、自分は、自分のことを何と呼んだのだろうか。