思葉は肩で息をきらして、倒れたまま動かない矢田をじっと見つめた。


ここからでは彼女の足しか見えないが、あの不穏に揺らいでいた黒い靄はどこにもなかった。


うまくいったのだろうかと戸惑っていると、周囲の空気が変わっていることに気付いた。


境内を囲んでいた鬱屈とした森はなく、少し離れたところには登ってきた石段がちゃんとある。


木々の間からは向こう側の景色が覗いていた。


風に煽られた枝葉が擦れ合う音、遠くを通り過ぎていくエンジン音が聞こえる。



(戻れた、のかな……)



先ほどまでいた馴染みのある世界にいるのだと自覚できた。


握っていたはずの木刀はどこにもないが、両手にはわずかにしびれが残っている。


手首を押さえて空を見上げていると、ずいぶんと藍色が広がっていた。


夜の匂いをまとった冷たい空気が流れ込んでくる。



「よかった……帰ってこられて……」



思葉はほっとして胸に手を当てる。


すると、そこが熱くなっていることに気づいた。


首にかけていた匂い袋が熱をはらんでいて、かすかに焦げ付いたにおいがする。


矢田に刺されそうになったときに感じたあの強い光は、この匂い袋が発したものだとすぐに分かった。


また永近に助けられた。


服の上から匂い袋を一撫でして、ふいに思葉は矢田が静かすぎるのに気になった。


そっと目を向けてみると、矢田は石畳に伏したままぴくりともしない。


投げ出された両手足はぐったりとしている。


思葉は急速に心配になってきた。


思葉を層の結界に閉じ込め、攻撃してきたのは矢田の中にいる得体の知れない存在だ。


しかし、思葉が木刀を打ち据え賽銭箱に激突させたのは間違いなく矢田の身体だ。


もし、矢田を操っていた何かが自分ごと彼女に護身を施していなかったら、いくら現実ではない場所での出来事であっても、何らかの影響が起こっているかもしれない。


それが、彼女の生死に関わるようなことであったら。