「いい加減に諦めたらどうだ?」
目の前に立った矢田がナイフを向ける。
逃げたいのに根が生えたようにへばりこんだ姿勢から少しも動けない。
矢田がゆっくりとナイフを掲げるところを呆然と見ているしかなかった。
ぐっと彼女の腕に力が走る。
(――やられるっ)
思葉は目を閉じて身体を強張らせた。
切っ先が思葉の心臓を狙う、その瞬間、強い光が思葉の胸元からほとばしった。
同時に、ばちん、と何かが千切れるような激しい音が聞こえる。
続いて耳障りな悲鳴がとんできた。
思葉が目を開くと、矢田が右腕を押さえて苦しそうに呻いていた。
大量の汗を浮かべながら、忌々しげに思葉を睨みつける。
「人間ごときが……小賢しい真似をしおって……」
そう吐き捨てる矢田の様子が少しおかしいことに気付いた。
矢田に重なっているあの黒い靄のようなものの輪郭がさっきよりもぼやけて見える。
時折靄が薄まり、その奥にいる本来の矢田の姿がわずかに見えるようになった。
(もしかして、今なら……矢田さんの中から、あれを追い出せるかもしれない?)
荒々しく呼吸をしていた矢田が、犬歯を剥き出しにして再び迫ってくる。
かわした思葉をおいかけてナイフを振り回すが、その動きは先ほどまでよりも格段に鈍い。
今ならこの結界から脱出できるかもしれない。
思葉は急いで間合いを取って構え直した。
唾を散らし明確でない言葉を叫びながら突進してくる矢田は獰猛な獣そのものだ。
焦点の定まっていない、それでいて殺意が溜め込まれている目は恐ろしい。
怯みそうになりかけたが意を決して、思葉は木刀を振るった。
握っているのは木刀であるが、この瞬間だけ、一振りの太刀を操っているつもりでいた。
そのためか、矢田のがら空きの脇腹を打ち据えた衝撃はかなり大きなものになった。
「ガハッ!」
泡を吹いた矢田に、反動を利用して通学鞄を思い切りぶつける。
大きくバランスを崩した矢田は後ろによろめき、賽銭箱を巻き込み派手な音を立てて石畳に倒れこんだ。



