姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】

 ゆらがここまで母の事に関して感情を顕わにするのはかつてないことだった。

 いつも淡々と、ただ言われた通り母を見舞い、笑顔で過ごしていた。

 幼い時を離れ離れで過ごし、大奥に戻ってきてもめったに面会を許されず、子である彼女が何も思わないはずはないというのに。

 けれど彼女の周りの者は皆、彼女が大して深くは考えていないと軽んじ、問題をなおざりにしてきた向きがある。

 それは一番近くにいたあやめも同じだった。

「姫さま」

「あやめ。わたしも父上が怖い。いつもにこにこしてるのに、ふとした時に見える冷たい眼差しがすごく怖いんだ。でもね、もうダメだよ。もうかあさまは限界なんだ。ここで私が動かなかったら、かあさまの病(やまい)はいつまでたっても良くならないよ」

 若さゆえの思い込みとであるとも言える。

 けれどその根元(ねもと)にあるのは実の子として母を思う純粋な気持ちだった。

 物心付いた頃から病に伏していた母と供にあった記憶はごく僅か。

 水戸で暮らした思い出が今でも彼女の支えであり、水戸の縁戚の老人を“おじいさま”と呼んで父よりも親しく思う彼女だった。

 その生い立ちが彼女の性格の形成に多分に関係しているのは明らかだ。

 一見わがまま放題のように見えて、その実一歩引き遠慮していることを、ずっと傍にいたあやめは知っている。

「分かりました、姫さま。お母上さまのために姫さまが良いと思うことをなさってくださいませ。後の事は、このあやめにお任せを」

「ありがとう、あやめ。かあさまのために、わたし頑張る」

 言うが早いか、ゆらは打掛を脱ぎ捨ていつもの若侍姿になると、文机の上の小箱から小さな鈴を取り出したかと思うと、手首を一心に振ってそれを鳴らし始めた。

 チリチリチリチリ

 涼やかな鈴の音が響く。

「姫さま?」

 またゆらの奇怪な行動が始まったかと、あやめは早速己(おのれ)の決意が揺らぐのを感じたが、鬼気迫る形相で鈴を振り続けるゆらを止めることもできず固唾を飲んで見守った。

「にゃあ」

 しばらくして猫の鳴き声が部屋の外から聞こえてきた。

「ほんとに来た!」

「何が来たのです、姫さま?」

 あやめの問いかけにも答えず、ゆらは勇んで部屋の外へ飛び出した。

 庭へ降りる踏み石に揃えて置いてある草履を引っかけると、「じゃ、あやめ行ってくる!」と言い残して駆け出して行った。

 姫の俊足には敵わないことを重々承知しているあやめは、「姫さま!くれぐれもお気をつけて」と案ずる言葉を走り去る背中に投げ掛けることしかできなかった。