そんな昔のこと――と、詩月は小さく口にし、店の中央に澱と構えた黒塗りのスタンウェイ、グランドピアノに目を向けた。

白い猫が座っている。

「あの貢が唖然として、一言も言い返せなかった」

「言っておくが、あれはオケというにはあまりに悲惨な演奏だった。安坂さんはよく耐えていると感心したんだ。途中でキレて退室してもいいくらいだった」

「厳しいーっ」

 郁子と相席している女生徒が、悲鳴にも似た声で言う。

「緒方……また、猫がピアノに」

「よく来ているみたいね。いつもピアノの上に座っているのよ」

「目当ての演奏か曲でもあるのか?」

 詩月は言いながら、ヴァイオリンをケースから取り出し手に取ると、ピアノに近づく。

 扉の風鈴が微かに鳴り、客が入って来るたび、ほのかに金木犀が香ってくる。

隣接する高校の寮と大学に、金木犀の木が数本あり毎年秋口から薫り始める。

甘く優しい香りは、心まで優しい気持ちにさせる。

「緒方、エルガーの『愛の挨拶』弾けるか?」

 詩月はピアノの側に立ち、郁子に尋ねる。