詩月の元ヴァイオリンの師匠が、決まって座り寛いでいた席だ。

彼女は目を細め穏やかに微笑み、凛と背筋を伸ばし学生たちの演奏に頷いたり、拍手を送っていた。

「ったく、おチャイコさんを弾く時は気持ちのセーブが利かないんだよな、詩月は」

理久がクラッシックのことなど殆ど知りもしないのに、わかっているような口を利く。

 主の居ない席を見つめ、懸命に奏でる曲は、僅かに七分弱の演奏だったが、たっぷりと聴かせる演奏だった。

 黒塗りのグランドピアノの上で演奏を聴いていた白い猫は、演奏が終わるとすくっと体を起こし「ニャア~」と力強く鳴いた。

すたりとピアノから降りると、曲を弾き終えた詩月の足下に体を擦りつけた。

詩月が腰を屈め白い猫に触れようとしたが、猫は素早く詩月の足下をすり抜け出口へと向かった。

白い猫はレジ付近に立っている若いウェイトレスを見上げ、小さくひと声鳴き、扉を開けさせる。

扉の隙間から柔らかく風が吹き込み涼やかに、風鈴の音が響いた。