満ちるは、ある日を境に記憶をなくす。

自分の名前ですら、なくしてしまう。


その度に僕は、プロポーズの話を繰り返す。

彼女の、夫として。


ある時、満ちるは僕を見ていた。食い入るように。

だから僕はいつものように、こんこんと辛抱強く、満ちるを形成していくつもりだった。

あの、口説き文句とプロポーズを山場に織り込んで。


ところが。

満ちるが、まだ自分の名前しかインプットされていないにもかかわず、僕の手を握ったんだ。

はじめは恐々と、指に触れると、力強く。


「私、分かるの」

痛いくらいに手を掴み。


「あなたが私にとって、とても大切な人だって、私の身体が覚えているの」

「まだ僕は君を口説いてないけど?」

「それでもいいわ」

「プロポーズもしていないけど?」

「構わない」


満ちるが、口づけをしてきた。

僕を知るために。


そこから、ルーツを辿るために。



その頃からだろうか。

僕はなにか言い知れぬ違和感を感じていた。


酒もタバコも嗜まないが、健康診断も受けてみた。異常はない。

それなら___。


キッチンで洗い物をする、満ちるを後ろから抱きしめる。


泡立つ手を、優しく揉んだ。

満ちるの手には、深い皺が刻まれていた。