「みっちゃんさん、お願いします」


マスターが光子に声をかけた。彼女は我に返ると、軽く頭をふって、トレイの上に、湯気を上げるコーヒーカップに、ショットグラスに注がれたブランデー、それから小さな脚つきの網とアルコールランプを載せて、彼の元へゆっくりと歩いていった。


いつもなら、彼は新聞を読みながら待っている。その新聞もこの30年変わらない。光子は自分でもこの新聞をとるようになっていた。彼女は独身で、生活の些細な点で彼のスタイルを真似るようになっており、新聞もその例に洩れなかったのだ。少し固い新聞で、読むには骨が折れたが、彼女は一生懸命読んでいた。それだけで、彼と親しくなれた気がしていた。そして、今日はどんな記事を広げているのだろうと思っていた。


しかし、彼は新聞ではなく、この喫茶店のメニューをじっと見ていた。こんなことは今までに一度もなかった。彼は、いつもブランデー付きのコーヒーしか頼まなかったのだ。メニューを見る必要などないはずなのに。光子は、また膝頭が震え始めるのを感じた。


「お待たせいたしました」


光子が、コーヒーカップをそっとあめ色のテーブルに置くと、彼は光子を見上げた。その目は、かすかにうるんでいたが、やわらかく光っていた。光子はどぎまぎして、視線を反らそうとしたが、うまくいかなかった。


「おねえさん」


彼が初めて光子を呼んだ。しかも「おねえさん」と呼んだ。その親しみのこもった声に、光子は思わず顔を赤く染めた。


「追加注文お願いします」


「はい」


「コーヒーゼリー。ミルクをたっぷり」


光子は、それを聞いて、記憶が逆流するのを感じた。


30年前に彼がここに通いだした頃は、一人で来店しているのではなかった。小柄で、光子よりも年下に見えるが、コケットな魅力を持つ女の子と一緒だったのだ。彼はやはりブランデー付きのコーヒーを注文したが、その彼女というのが、今、彼が頼んだコーヒーゼリーを、ミルクをたっぷりかけて食べていたのだ。


いつしか彼女は来なくなったが、彼はいつまでもここに通い続けた。そして、光子はずっと声にならない思いを胸に秘めて、彼を見守ってきた。


彼の顔を真正面から見て話すことはなく、いつも仕事の合間に彼の背中をせつなげに見つめるだけだった。それでも、彼を見たさに、彼女は仕事をほとんど休まなかった。いつの間にか世代は変わり、街も変わったが、彼と彼女の関係は、いつまでも動くことなく変わらなかったのだった。



光子がマスターにゼリーの注文を通すと、マスターもやはり驚いていた。だが、マスターはコーヒーゼリーの由来を知らないので、光子ほどには動揺しなかった。一方、光子は青ざめていた。


彼女は、息を整えてから、ゼリーを彼の元に運んだ。彼は、火をつけたアルコールランプを脚付きの網の下に置き、網の上にコーヒーカップを載せて、ブランデーを注ぎ、アルコールを飛ばしていた。辺りには芳しい香りが漂っていた。光子が近づくと、一心に火を見つめていた彼は、顔を上げて彼女に微笑みかけた。これも、今までにないことだった。



「ありがとう」


ゼリーが置かれると、彼は目を伏せた。しかし、光子が立ち去ろうとすると、急いで引き留めた。


「待ってください。少し、僕のために時間を割いてもらえませんか」