沈んでいるのか浮かんでいるのか、いったいどっちなのかわからない。
 とにかくものすごい勢いであたしの体は水の中にひっぱられている。
 それだけが事実だった。

 水圧で苦しい。体中が痛い。
 一体、何が起こっているのだろう。ていうか、息が。
 …あれ、でも、意外と平気…ていうか、胸が、あつ…

「―――ぷは! げほ、…っ、!」

 いきなり自分を取り巻いていた水の重圧から解放され、条件反射のように酸素を体に取り込む。
 何もかもがいきなり過ぎて体がついていかない。肩ががくがくと震える。体に上手く力が入らない。

 濡れた視界に映るそこは、水の中では、ない。ただ水に囲まれていた。
 薄く水の張られた冷たい床の上。滴る水滴が波紋を描く。
 むせる喉元と震える体を必死に押さえながら目をこじ開けたその先に――

「………説明しろ、リシュカ」

 ふたつの、人影。
 わずかに距離をとったその影は、大人と子供ほどの差がある。
 思考が上手くまとまらず、身構えることしかできない。

「おれは、“武器”か、“契約神”そのどちらかを喚よんだはずだが…これは、失敗か?」

 ひどく不本意そうな、不満そうな声。
 不機嫌な子供の声だった。

 高い高い天井に、丸く縁取られた真っ白な部屋。
 明かりはひとつ。天井から降り注いでいる白い光だけ。
 その降り注ぐ光の足元に、あたしは居た。
 床に薄く張られた水が、震えるあたしの体の振動を波紋で伝える。
 コポコポと水の音がした。
 何故かずっと、やけに耳につく、音が。

「ちっ、やはり術式が途中まで同じだからとふたつ同時に喚び出そうとしたのが間違いだったか」
「僭越ながら…一応私は何があっても知りませんよ、と申し上げました」

 そのふたつの声はあたしが居る場所とは正反対の、明かりの届かない薄暗い闇の中から響いてきた。
 光と薄闇の境界で、輪郭のおぼろげな影が動いてしゃべっている。

「何だ、責任放棄か!」
「横着なさるからです。精霊も神も式を簡略化なさろうとする煩雑な使徒の下へなど降りてこられません」
「お前が最初にもっと強く止めてくれれば、おれはやらなかった」
「いいえ、陛下は私がどんなに法術の理を説いても聞いてくださいませんよ。だから良い勉強になるかと思ったのですが…」
「さてはわざとだな、リシュカ。失敗したら術が撥ね返って来たかもしれんだろう、お前それでもこのおれの側近か」
「そうならない結界は施してあります。まぁ、失敗かどうかの判断はまだ致しかねますが…確かめてきますのでお待ちください」

 カツン、と。石床に冷たい足音が響く。その音にびくりと大きく体が揺れる。
 得体の知れない状況に、理解できない現状に、思考は全く働かなかった。

「待て、見る限り言葉は通じるだろう。おれがいく」
「なりません。罠の可能性も十分に有り得ます。ここですらもう、万全とは言い難いのですから」
「成功していたとして、契約者はおれだ。おれの魔法はもう長くは持たない。時間が惜しい」
「……」
「リシュカ」
「……承知しました」

 重なっていた影が、その身を屈め後ろに退く。
 そしてもうひとつの影が靴音を響かせながら、明かりの下へと姿を現した。

 カツン!と高らかに、すぐ目の前で鳴る。高い天井や白い壁に反響しながら。

「…お前は、この世界の人間か?」

 青い瞳。
 初めて見る。
 こんな綺麗な青を。
 こんな綺麗な男の子を。

「ここ、は…どこ、なの…」

 ようやく口から漏れたのは、ひどく震える声だった。
 その男の子が着ているのは、例えば七瀬が着てるような制服ではない。
 かといって大人達が着るような、日本人が日常的に着ているような装いでもなく。

 初めて目にする格好。
 髪や、瞳や、肌が。
 同じ人間とは思えないような、そんな空気を纏(まと)っていた。

「質問をしているのはおれだが…まぁいいだろう」

 明るい翡翠色の髪が絹のような光沢を纏って、白い光にすら紛れぬように存在を主張する。
 その青い瞳があたしをまっすぐ射抜く。

「ここは、シェルスフィア。海と貴石に愛された青の王国。そしておれは、シェルスフィア・シ・アン・ジェイド。この国の王だ」

 なんだっけ、こういうの。
 そう、突然何かのキッカケだったり必然だったりで、知らない世界にとばされちゃうの。いつだったか、小説で読んだことある。加南に借りた小説だ確か。
 求められて、必要とされて。何かの役割を負わされて。
 でもあたしは。

「おれの儀式が成功したのであれば、お前は海神トリティアか、神器イディアだということになる…まぁ、お前が武器である可能性は低いか?」
「古代には人型の武器があったと聞きます。イディアかもしれませんよ」

 また、薄闇から声。
 目の前の男の子よりも年上であろう、だけど性別ははかりかねる中性的な声。
 その声に目の前の男の子が振り返る。

「何、確かか。変身でもするのか、もしや」
「ただ、そんな希少種はシェルスフィアの歴史において先代の王族達が契約されたという記録もありません。そもそもイディアはトリティアの武器ですから、単体ではそこまで能力はないはずです」
「…お前わかっているなら何故口に出す」
「ジェイド様の嫌いな史学のお勉強の為ですよ。それよりのんびりおしゃべりしている暇も無いのでは?」
「ちっ、お前から横槍いれてきたくせに。まぁ、いい。話を戻そう」

 くるりとまた、その青い双眸がこちらを向く。
 あたしの顔を覗きこむように。

「名を聞こう。それが一番はやい」
「な、まえ…?」
「そうだ、お前の名だ。トリティアか? イディアか?」

 爛々と期待の眼差しを向けられても。
 残念ながらあたしは、そのどちらでもない。

「……ま、お…」

 だけど答えるしかない、この場面では。

「碓氷(うすい)、真魚…」