授業が終わってから廊下を探してみたが、ペンケースは見つからなかった。
 移動教室は六時限目。
 すぐに放課後になってしまう。

 もうすぐ実力テストなので部活はない。
 深成は図書館に寄る用事があったので、駅前であきと別れた。

 駅前の大きな図書館は、深成の大好きな場所だ。
 しん、と静かな建物の中を、目当ての本を探して歩いて行く。

「あ、あった」

 お気に入りの『主婦ミラ子シリーズ』を本棚から引っ張り出し、うきうきとカウンターへ向かう。
 本棚から抜けたところで、ふと深成の足が止まった。

---そうだ。折角図書館に来たんだし、ちょっとお勉強して行こうかな---

 カウンターの手前には、机と椅子のあるスペースがあり、勉強する学生や、調べ物をする人などが利用する。
 よし、とそちらに行こうとしたが、何かいつもと空気が違う。

 一画だけ人がやたらと少ないわりに、館内の皆が、そちらに目を向けているのだ。
 しかも、ガン見ではなく、遠慮がちにちらちらと。

---ま、空いてる分にはありがたいや---

 思いつつ、深成は何も考えずに勉強スペースに入り、その空いたところに荷物を置いた。

「お邪魔しまーす……」

 小声で言いつつ椅子を引いた深成の語尾が細くなった。
 座ろうとしていた身体も、中腰で止まっている。

 深成の前で顔を上げたのは真砂だった。
 真砂と目が合ってようやく、この辺りに人がいないことと、のわりに、皆が遠巻きにここを見ていることの理由を悟った。

「ま、真砂先輩っ」

 慌てた深成に、真砂は訝しげな顔をした。
 何故自分の名前を知っているのか、と思ったらしい。
 自分が世間でどういう存在か、わかってない故の反応だろう。

「お前、今日ぶつかった奴だな」

 しばらくして、真砂が口を開いた。
 おお、声を初めて聞いた、と、ちょっと感動し、とりあえず深成は椅子に腰掛けた。

「はい。一年の、深成と言います。あの、ぶつかっちゃって、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる。

「別に構わんが。見事にすっ転んだのはお前だし。……そうだ」

 真砂が、横に置いていたリュックに手を突っ込んだ。

「これ、お前のか?」

 取り出したのは深成のペンケース『くまちゃん』。

「あ! くまちゃん! ああ、良かったぁ~。無事だったんだね」

 嬉しそうに、よしよしとくまの頭を撫でる深成に、真砂が胡乱な目を向ける。
 そんな冷たい視線には気付かず、深成は真砂に、にこりと笑いかけた。

「ありがとうございます。この子、お気に入りだから、なくなっちゃって悲しかったんですよ」

「……それは何より」

 素っ気なく言い、真砂は机に視線を落とした。
 見ると、真砂の前には参考書が広げられている。

「先輩、お勉強なの?」

 真砂のノートを覗き込んでみても、何のこっちゃかわからない。

「真砂先輩、今回も一番でしたね。凄いね~」

「別に大したことじゃない」

「そんなことないですぅ。わらわ、今度の実力テストは自信なくて。ちっともわかんない」

 言いつつ、深成は鞄から教科書を出した。

「真砂先輩も図書館でお勉強してるんだ。じゃ、わらわもここでお勉強したら、かしこくなるかも」

 ばさばさとノートを広げ、戻って来たくまちゃんからシャーペンを出して教科書を睨む。

「……」

 意気込んでみたものの、場所が変わっただけで、すぐにかしこくなるはずもない。
 深成は眉間に皺を刻んで唸った。

「……どこがわからない」

 不意に、前から低い声がした。
 ん、と見ると、真砂が両肘をついて身を乗り出している。

「あ……えっと。あの、この辺とか」

 深成が示した問題を読み、真砂は自分のノートを深成のほうに広げると、公式を書いた。

「これだろ」

「そう……なんでしょうけど。それをどう使うかわかんない」

「これが問題文の、これを示す。で、これがこれ。つまり……」

 説明していた真砂が、ちょっと周りを見た。
 あまり喋るのはよろしくないが、机の幅があるので、そうぼそぼそも喋られないのだ。

「遠いな……。ちょっとお前、こっちに来い」

「うえっ?」

 自分の参考書類を引き、隣を空けた真砂に、深成は妙な声を出した。

「隣のほうが教えやすい」

「ええっ! で、でも……」

「さっさとしろ」

 有無を言わせない雰囲気に、深成は若干おろおろしながらも、机を回り込んで真砂の隣に移った。

「この公式はだな……」

 深成が隣に座ると、真砂がずい、と身体を寄せる。
 声を潜めているため、相当な近さだ。

---ひええぇぇっ!!---

 一瞬で、深成の体温が上がる。
 昨日まで姿を遠巻きに見るだけで、声も知らなかったような雲の上の存在が、肩の触れ合う距離にいる。
 しかも深成の勉強を見てくれているのだ。

---こ、こりは夢かっ? お気に入りのくまちゃんが、いっつも可愛がってるお礼にって、わらわに幸せな夢をプレゼントしてくれたのかな---

 確かにくまが繋いでくれた縁と言えなくもない。
 夢かもしれないなら、とことん堪能しないと! と、深成は真剣に真砂の話に聞き入った。