啓は、記憶を失くしているとか、そんな大げさなことではなくて、単純に自分を見失っているように見えた。
ここがどこであるとか、私が誰であるとか、そういったことがすべて、啓の中から抜け落ちてしまうくらいに。


私はまず、みどりさんが私と向き合ってくれたように、啓に紅茶をいれて、さりげなく同じテーブルについた。
私からは何も訊かない、と決めている。
啓が話してくれるまでは。


「あの、僕……高梨啓といいます。よろしくお願いします。」

「こちらこそよろしくお願いします。私は……、」


少し迷って、言う。


「私は、若月みどりです。」

「みどりさん。」

「ええ。」


もしも、もしも相原雛という名前を聞いて、啓のつらい記憶をよみがえらせてしまったら……。

そう思ったのだ。

ゆっくりでいいから。
ここにいるうちは、ゆっくり、自分と向き合えばいいから。

そして、いつか、つらい記憶と向き合える日がきっと来る。
私だって、そうだったんだから。


「住み込みで働けるって。」

「ええ。高梨さんの好きになさってください。店の二階に空きの部屋がひとつありますから。」

「じゃあ、そこに住まわせてください。僕、家は割と近くにあるんですが……、」


そこで啓は口をつぐむ。
なんだか困ったような顔をして、うつむいていた。


「いいんですよ。わざわざ通うことないです。何も心配いりません。」

「じゃあ、お言葉に甘えて。」


啓がうっすらと微笑む。

あまりにも切ないその表情に、吸い込まれそうになった。

でも、私は啓のみどりさんだから――


「ご案内しましょうか?」


啓に向かって努めて優しく微笑んでみせた。

大丈夫。

強い思いを込めて。