家の玄関のドアを開けると、何やら楽しげな音楽が聞こえてきた。

先生の家で流れていたのと同じ、クリスマスソングだ。

また涙が溢れてきて、私はどうしようもなかった。


隠れるように階段を上る。



「唯ちゃん!帰ってきたんだろ?おいでよ!」


「……いいの。」


「唯ちゃん。」


「ごめんなさい。」


「唯ちゃん、どうしたの。」



マエゾノさんから顔を背けて、階段を駆け上がる。

今は、そっとしておいてほしかった。

ひとりで、この悲しみに浸かりたかった。

先生との思い出に浸かることが、私に許される唯一の先生との関わりだから―――



「唯ちゃん!」



それなのに、私を追いかけて来たマエゾノさんは、強引に私の手を引いて、階段を下った。

整理のつかない心のままで、私は結局、明るい音楽の流れる居間に、連れてこられてしまった。


明るい場所で、涙でぐしゃぐしゃな顔を見られるのが嫌で、私はうつむいていた。



「せっかく早く帰ってきたなら、一緒にクリスマスのお祝いができたらいいと思って。」



明らかに、私の様子に気付いているはずなのに、触れようとしないでマエゾノさんが言った。

それは、きっと気遣いなのだろう。

でも、人の気遣いを素直に受け止められないほどに、私の心は冷え切っていたんだ。



「どうしたの、唯。」



「お母さん……。」



意外だった。

母に気遣われたのなんて、何年振りだろう。


ふと見回すと、クリスマスツリーに、食べかけの豪華な料理が並んでいた。

母の顔は上気していて、とても楽しそうだ。

マエゾノさんは、紛れもなくこの壊れた家庭を、修復しようとしてくれている。



だけど、それは分かるけれど―――



悲しくて。
明るい音楽も、ツリーも、料理も、すべてが私を悲しくさせて。



「ねえ、お母さん……。どうして、私を産んだの?」



「「え―――」」



母とマエゾノさんの声が重なった。

ひどいことを言っているのは分かっている。

ただの八つ当たりだって、分かってる。



「どうして?お母さん、いつも言ってたよね。あなたさえいなければ、って。あなたがいるからって。」



空気が凍ったのが分かった。

母も、そんな母を知らないマエゾノさんも、息を呑む。



「私だって、私だって生まれてきたくなかったよ。……こんなに悲しくて、嫌われて、愛されることのない人生ならっ!!」



言い放って、そのまま階段を駆け上がった。

自分の部屋に飛び込むと、ベッドに突っ伏して、声を押し殺して泣いた。



先生と過ごした短い日々が。

別れ際の涙が。

父のいた頃の幸せな家庭。

父の自殺現場を見てしまったこと。

そこから壊れた家庭。

マエゾノさんのこと―――



色々なことが、走馬灯のように心をよぎった。

この夜に、すべての悲しみが凝縮しているような気がした。



もう二度と会えない人が増えていく。

マエゾノさんだって、いずれ私の目の前から消えてしまうんだろう。



天野先生は、やっぱり嘘つきだ。





「人は、一生に同じ分だけ優しさを受け取るんですよ。もし笹森さんが、これまでにたくさん涙を流してきたのなら、笹森さんはこれからもっとたくさんの、優しさを受け取って生きていくんです。」



「愛されるということの意味を、教えてあげましょうか。」





嘘つきだよ、先生。

私は、先生に愛されたの?

一瞬でも先生は、私のこと―――




好きだったの?




いつまでもいつまでも、涙は止まらなかった。

このまま涙に溺れて、息が出来なくなってしまうのではないかと思うほど。


いっそ、この冷たい夜に、気付いたら息が止まっていたのなら。





その日の夜遅く、何時だか分からなかったけれど。



部屋のドアが静かに開いた。




「唯……ごめんね。」




震える母の声が、聞こえたような気がした―――