目の前に立つ彼は、幻なんかじゃないと確信した所で、やっと耳に夏の夜の音色が戻ってきた。
大きく波打っていた心音も、徐々に落ち着きを取り戻す。
驚きの代わりにじわじわ広がるのは、歓喜とも安堵ともつかない、複雑な幸福感。
大きく息を吸い込みゆっくり吐き出して、まだ波立つ心を出来る限り鎮めながら、声を出した。
「お帰り…」
「ん…ただいま…」
はにかむ様に口元を綻ばせる流星。
声を掛けると、返事と微笑みが返ってきた。
そんな当たり前の事が堪らなく嬉しくて、さっき鎮めたばかりの鼓動が、またドキドキと速度を速め、目頭が熱くなった。
流星が二人の距離を半歩縮める。
私の肩にかかる黒髪に腕を伸ばした。
綺麗な指先が、髪を一束すくい上げる。
感触を楽しむ様に、それを指先で遊ばせ、指の間から滑り落とす。
「まだ少し濡れてるね。
君はいつも髪を乾かさずに出て来る…風邪引くよ」
その言葉を聞くのは三度目だった。
幼い夏の別れの前夜にもそう言われ、17歳の夏にも、白樺の木の下で同じ様に言われた。
想い出の中の懐かしい言葉に胸が震え、私も幼いあの夏と同じ言葉を彼に返した。
「大丈夫、まだ夏だもん」
私がそう答えるだろうと、流星は分かっていた。
予想通りの言葉にニッコリ笑みを浮かべた彼は、目を細め、眩しそうに私を見る。
それから暫くの間、二人に言葉は無かった。
耳に聴こえるのは自然の音色だけ。
この無言の間も今は心地好い…流星が茶色の瞳に私を映してくれるから……
私を見るその瞳は、どこか遠い場所を探していた。
幼いあの夏を、記憶の中から呼び起こしているのだと思う。
彼は暫くそうして言葉を無くし、想い出の中をさ迷っていた。
思考の時間を邪魔しないように、私は静かに待っている。
彼の着ている、清潔感漂う白シャツの衿元に目を止めた。
衿元のボタンは二つ目までが外されている。
喉仏の少し下から始まる手術跡は、以前と変わらずそこにあった。
それは、彼の生の証。
白い肌に残された茶色の線に、私はしみじみとした喜びを覚える。


