時刻は19時頃、
ダイニングの食卓テーブルには、いつもの様に賑やかな皆の声が響いていた。
天井から吊り下がる、六角形の品格あるランプシェード。
そこから黄み掛かった光りが降り注ぎ、テーブル上の湯気立つ料理に、どこか懐かしげな色を添える。
イワンさんが大切にしている古いタイプのラジオからは、
古式ゆかしいロシアの歌謡曲が小さな音で流れている。
偉大なるバス歌手と呼ばれたシャリャーピンが『ヴォルガの舟歌』や『黒い瞳』など、
幾つかの民謡と古いロマンス曲を、朗々と歌い上げていた。
古き善き時代を偲ばせるこの家の夕食時、
メイン料理として並んでいるのは、ビーフストロガノフ。
ロマノフ王朝時代に栄華を極めた、ストロガノフ家縁の、代表的なロシア料理だ。
日本で食べる物と少し違う気がするのは、サワークリームがたっぷりと入っているせいかも知れない。
タマラさんが2時間コトコトと煮込み続けた牛ヒレ肉は柔らかく、口の中ですぐに溶けて無くなった。
付け合わせは蒸したジャガイモとクレソン。
それから、手作りの素朴なパンに自家製ピクルスが数種類。
タマラさんが
「ライスも用意するかい?」
と聞いてくれたが断った。
『郷(ゴウ)に入っては郷に従え』だ。
日本人の我妻さんも米よりパンやジャガイモを主食としている。
俺もそれに倣(ナラ)い、たまにしか米を口にしなくなった。
米なしの食事が続くのは初めはきつかったが、慣れる物だな…
皆が揃うロシアの食卓にはウオッカが欠かせないとイメージしていたが、
この家の人達は、滅多にアルコールを口にしない。
下戸ではない。
イワンさんは若かりし頃、酒豪と呼ばれていたと聞くし、
我妻さんも付き合い程度に、近所の人達とウオッカやビールを口にするのを見た事がある。
今アルコールを好まない理由を、彼らはこう話す。
一時の気分の高揚より、家族や友人と意味のある語らいをしたい。
書物から知識を得る事や考える時間を、アルコールに邪魔されたくない。


