「黙って居なくなったりしないから、大丈夫ですよ。
我妻さんなら、ロシア全土に家出人捜索のビラを配って歩きそうだし、失踪なんて出来ません。
それに…今の居場所は、ここ以外ありませんから…
我妻さんにもこの家の皆さんにも、深く感謝しています」
この家の優しい人達は、俺の頑なな決意が変わる事を望んでくれている。
それは重々感じているが…彼らの期待には応えられない。
だからこそ、せめてこれ以上の心配を掛けない様、この地で前向きに生きようと思う。
正直今は、何を見ても最後は紫に結び付けてしまう。
ヤースナヤ・ポリャーナの白樺の森を散策しては、幼い紫と一夏を過ごしたあの白樺並木を思い出し…
このグジェリ焼きのティーポットを見ても、
白地に描かれた鮮やかなコバルトブルーの染料に、
彩の写真展の日に紫が着ていた、ワンピースの色を思い出す。
紫を想い、彼女との思い出を振り返る日々を送っているが…
それを決して悲観的な意味に捉えないで欲しい。
紫を愛する気持ちを無くしたくはない。
彼女との温かな想い出を消したいとは思わない。
彼女への愛を捨てずに、この地で自分らしく生きてみせる。
残された時間を…ただ悲観して生きるだけにはしたくないんだ。
「我妻さん、色々と心配してくれてありがとうございます。
俺はもう大丈夫です。
こういう生き方しか出来ませんが、それでも満足しています。
紫は富良野で笑っている。
ラベンダーの波の中で笑っている。
そう思えば、離れている事にも意味を見出せる。
紫は涙する事なく…俺の心も凪いでいる。
これでいいんですよ」
3年前から変わらないこの持論を、こうして我妻さんが核心に触れてくる度に展開してきた。
我妻さん夫婦を見ていると迷う時もある。
それでも今日も「これでいい…」と同じ台詞を繰り返し、
彼に溜息をつかせ、首を横に振らせる。
窓の外はすっかり日が落ちて薄暗くなっていた。
部屋の隅の間接照明2つと、読書灯の小さな光の下で本を開いていたイワンさん。
彼が立ち上がり、大きなフロアランプのスイッチに手を伸ばす。
タマラさんがキッチンに立ち、夕食の下拵えを始めた。
それらを合図に、俺と我妻さんも食卓テーブルから離れる。


