この写真を観賞する意識は今は無い。
俺にとって重要なのは、自分の姿がフレームの外だと言うこと。
それを理解し、安心してカメラを返した。
「リュウ、安心した所で少し話しをしよう。
座って?」
我妻さんはイワンさんがいつも座る窓際の席に座り、
俺はさっき倒した椅子を起こし、彼の向かいに静かに腰を下ろした。
「食べながらでいいよ。
折角アーニャが心を込めて作ってくれた焼き菓子だ。
残さず食べてくれたら僕も嬉しい」
そう言われスコーンを口にし、紅茶を飲んだ。
冷めたスコーンと湯気の立たない紅茶は、先程皆で食べた時に感じた、素朴で温かな味わいを失っていた。
テーブルの上に乗せた両手を組み合わせ、我妻さんは静かな語り口で俺に尋ねた。
「リュウ、この国は好きかい?」
「好きです。
モスクワは中心部より、ここの様な田舎の方が暮らし易い。
ぺテルブルクは歴史を味わえるので、街中の方が好きですが」
サンクトペテルブルクは、ロシア帝国時代の首都だった街。
ロマノフ王朝時代の上品かつ絢爛(ケンラン)なバロック様式の建築物も数多く残され、歴史の息吹を感じる事ができる。
そう言った歴史ある建物を見ながら街を散策するのも楽しかったが、
何より、ロシアの文豪達が実際に暮らしていた古い町並みを見るのが好きだった。
ドストエフスキーが晩年暮らしたアパートは現在博物館になっていて、
『罪と罰』の直筆原稿を目にした時には鳥肌が立った。
去年の春にトルストイの愛した地、ヤースナヤ・ポリャーナを訪れた時は、
彼のシンプルかつ美しい文章を体現したかの様な土地に、深く感銘を受けた。
質素な邸宅に、芝に覆われた十字架もない簡素な墓、
それに対比して、所有する農地は広大で緑の森は豊かだ。
まさにヤースナヤ・ポリャーナは、トルストイの文学精神を生み出した…
いや、彼の精神その物と言うべき、余計な物を削ぎ落とした彼の聖域だった。
ロシアに来て3年、仕事の合間に興味のある場所や物を、手当たり次第に見て歩いた。
紫と別れても、塞ぎ込んで家の中に閉じこもっていた訳ではない。


