我妻さんとアナスタシアさんが仕事の為に書斎へと戻って行った後も、
俺は2皿目のスコーンにも新しい紅茶にも手を付ける事なく…
ただ黙って、食卓の椅子に座り続けていた。
紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上り、暖かい室内の空気に溶け込み消えて行く。
朝日の様な白い西日が、テーブルクロスの上に光と影の模様を描く。
紫は今頃、何をしているのだろう……
幾度となく考えてしまうその問いを、今もまた虚しさの中に静かに吐き出す。
ズボンの後ろポケットからスマホを取り出した。
これは解約してあるから、通話もメールもどこにも通じない。
けれど今では型遅れとなってしまったこのスマホを、
紫水晶の指輪と同じ様に身から離さず持ち歩いている。
光沢のある紺青色の地に、星空柄の付いたスマホカバー。
これはかつて紫がクリスマスプレゼントにくれた物。
俺が紫の為に購入したスマホカバーと偶然にも色違いで…
あの時は驚き…そして嬉しかった……
紫はまだ、あのスマホカバーを持っているのだろうか……
なるべく俺を想わせる品を彼女の手元に置きたくなくて、
紫水晶の指輪は回収し、俺の書いた本はゴミに捨てた。
けれどあのスマホカバーは回収出来なかった。
もう捨ててしまっただろうか…それならいい、それがいい。
俺には紫を忘れる事など出来はしないが、彼女には忘れて欲しいと願っている。
傍にいられないのなら…
俺がかつて君を忘れてしまった時の様に…
今の君にも、俺の存在を忘れて欲しい……
どこにも繋がらないスマホに電源を入れる。
待受画面に写るのは、最後に見た笑顔の紫。
俺の入院先の玄関で、別れ際に写した写真だ。
あれが君との最後……
俺に背を向けバスへ乗り込む君の後ろ姿も…
灰色の煙りを残して走り去るバスの車体も…
涙に咽(ムセ)び、最後まで見る事が出来なかった……


