今より十程若い、二人の姿。
この時の二人の心に描かれていたのは、希望に満ちた未来像だけで、
その後の苦悩の日々を、予感すらしていなかった事だろう。
そんな幸福の象徴の様な写真立ての隣にある物は、小さな十字架の置物。
純白のレースの上に置かれた銅製の十字架は、弱い陽光に照らされ、艶やかに銅色を光らせていた。
その十字架の台座には、愛らしい天使が一人座っていた。
無邪気な笑顔を浮かべ、抱っこを求めるかの様に両手を広げ、こちらに眼差しを向けている。
天使の頭頂部は周りの艶々した銅色の部分に比べ、幾分くすんで見えた。
それはきっと…
アナスタシアさんがその部分を毎日撫でながら、堕胎に至った我が子に語り掛けているせいであろう。
キッチンからハーブとチキンの焼ける良い香りが、この部屋まで流れてきた。
ランチの用意をしながらも、夫婦漫才の様な掛け合いがまだ続いている。
そこにタマラさんとイワンさんの声も混ざり、リビングとキッチンは賑やかで楽しそうだ。
今も深い悲哀と苦しみの中、それでもこうして小さな日常の幸せを積み重ね、笑顔を見せるこの家族。
彼らを見ていると迷いが生じる。
俺は…間違えているのだろうか……
分からない。
ただ、あの時の紫の涙が…まだ心の中を濡らしているんだ。
俺が死ぬのは『怖い…』
そう言って彼女は泣いた。
やがて訪れる俺の死は、彼女を深く傷付け、笑顔を奪ってしまう事だろう。
やはり言えない。
怖いんだ……
紫から笑顔を奪う事が…
恐怖する彼女を見る事が…
己の死よりも何よりも怖いんだ……
俺には…言えない。
紫には命の期限は告げられない。
無意識に、アナスタシアさんの天使に手を伸ばしていた。
僅かに変色している頭の部分を、彼女がしているのと同じ様に撫でてみる。
彼女もきっと自問自答を繰り返しながら、この十字架に祈りを捧げ、天使と対話しているのであろう。
俺が祈るのは紫の幸せ。
どうか…彼女の笑顔がいつまでも続きますように……
心の中でそう唱えて天使から手を離し、目を閉じ、胸の前で十字を切った。
「リュウ、何を祈った?」


