「山岸先生のこと、嫌だって思ったことなんて一度もありません!」

 杏梨は雅人の腕の中で思い切り顔を上げた。涙で若干視界が霞むが、それでも目を見て話すことだけは今、やめたくなかった。

「…俺もないよ。嫌いなところが、俺にも見つからない。7月の飲み会が終わって、藤峰さんを送って、別れようとした後に、今みたいに抱きしめて、そう言った。」
「…え…?前の…7月…?」
「2年目の夏のことだよ。藤峰さんが何も覚えていなくて安心した気持ちと、がっかりした気持ちが半々って感じだった。」
「ちょっ…ちょっと待って下さい。頭、整理します…!」
「…整理しなくていいよ。俺も整理なんかできてない。このまま聞いてほしい。」

 妙に真剣で、熱を帯びた声に聞こえるのは、杏梨がどうかしてしまっているからなのだろうか。

「可愛いって思っちゃったら、もうだめだった。藤峰さんが、気の合う同期として俺を好きでいてくれてる…ってか嫌いではないってことをちゃんと分かってたし、その距離が心地良かったのは本当だった。」

 雅人の頬がなんだか赤い。

「でも…、ごめん。今はもうそれだけじゃ、俺が寂しい。」
「…どういう、こと、ですか?」
「もっと会いたい。職場が変わっても。それも、理由なく。」
「理由、…なく。」

 〝理由〟というものに、確かに杏梨もこだわっていた。カラオケセクハラ事件では(杏梨命名)、雅人と距離を置けば解決するかもしれないと思った。でも、距離を置く理由が、雅人自身にはなかった。距離を置きたい理由が、ない。

「何でも話せて、何でも話してくれて、仕事にすごく一生懸命で、真っすぐで、自分の意志をしっかり持ってて、ダメだしもしてくれて。」
「ダメだしなんてしてないですよ、私!」
「…愛あるダメだしだと思ってたよ、俺。」
「はい!?」

 素っ頓狂な声が出た。

「つまり、ただシンプルに。」
「…?」



「…藤峰さんのことが好きだってこと。レンアイ的な意味で。」