「藤峰さんっ!」
「っ…!」

 どさっと尻もちをつきながらも、雅人は杏梨の頭を抱えてくれた。そのおかげで杏梨の方はといえば無傷だった。後頭部と背中に、雅人の腕を感じる。

「ごめんなさいっ…!私、ふらふらしててっ…。」
「うん。大丈夫。」
「山岸…先生…?」

 抱きしめられる腕が緩む気配がない。後頭部に回っていたはずの手が腰に回り、余計に強く抱きしめられる。

「…山岸…。」
「嫌いなところが、俺にも見つからない。」
「え…?」

 一体何の話だろう。抱きしめられるこの感触だけが確かだ。雅人から発せられる言葉はただただ脳の中を滑っていく。

「蓋を開けてほしくないって、わかってるよ。でも、開けたくなる衝動が…ちょっとだけ、ある。」
「山岸先生…?」

 耳元で雅人の声が響く。いつもよく聞く、笑っているときの声とは違う。子どもをしかる時の声とも、職員と話している時の声とも違う。こんな雅人の声は、きっと初めて。

「もっと、甘えてほしい。頼ってほしい。なんでも一人で解決しないでほしい。」
「え…っと、ごめんな…。」
「頑張り過ぎる藤峰さんを見てると、俺が苦しい。」
「どうして…?」

 わからない。全てがわからない。わからなすぎて、杏梨の脳は働くことをやめた。温くて心地の良い体温に包まれて、杏梨は意識を手放していった。力の抜けた杏梨の手からは、家の鍵が落ちた。

「って、何言ってるんだ、俺。…藤峰さん、覚えてない…よな。酔ってるだろうし。」

 そう呟いて、雅人は杏梨の家の鍵を拾う。そして杏梨の身体を抱き起こし、玄関のドアを開けて、申し訳ないとは思いつつも部屋へと入った。ベッドを見つけ、そっと杏梨の身体を横たえる。その穏やかすぎる表情に、子どもっぽさを覚えるくらいには平常心が戻ってきた。

「…っ~!さっきの俺、ほんとどうかしてた!衝動的すぎ!だめ!ああいうの!」

 ひとしきり騒いだあとに、杏梨の寝顔を見つめた。顔色一つ変えずに、穏やかな寝息を立てて目を閉じている。

「…1年半かけたら、恋愛する気になるかな、俺も。」

 恋愛は面倒だ。少なくとも仕事が一番大事な今は。こんな考え方はもしかしたら逃げなのかもしれない。

「おやすみなさい。藤峰さん。」

 誰も見ていないことをいいことに、雅人は衝動に任せて額に唇を乗せた。鍵を閉め、杏梨の部屋を後にした。

(明日、藤峰さんに連絡をいれてから鍵を届けにこよう。)