「バス来た。酔ってるとこ悪いけど、ちょっと走るよ。」
「え…。」

 ぎゅっと握られた左手。杏梨の手よりもごつごつしていて、指は長い。その不思議な感触と、フラフラな足で走ること、その両方が脳の正常さを奪っていく。
 ギリギリでバスに乗り込むと、雅人が二人席に座って、杏梨の腕を引いた。そこで手は離れる。

「はい、藤峰さん座って。」
「…はい。」
「苦しい?大丈夫?ごめんね、走らせちゃって。気持ち悪くない?」
「…大丈夫、です。」

 バスの揺れに応じて、杏梨の瞼が下がっていく。右肩がなんだか温くて気持ちが良い。

* * *

 ふと、左側に重みを感じて視線を移すと、自分の左腕に身を傾けて眠る杏梨がいた。

(…寝てるし。)

 勢いで掴んだ手が思いの外柔らかくて、今まで意識しないようにしてきたことを急激に意識する。

(藤峰さんも…ちゃんと女子じゃん…。)

 意識する前兆はあった。始まってしまいそうな、予感のようなものだ。だが、それには蓋をした。お互いにそう望んでいるような気がしたから。お互いにそう望んでいると、確認したから。だから、雅人は蓋を開けない。開けてはいけない。それなのに。

「…藤峰さん。」

 呼びかけても目を覚まさない。無防備すぎる寝顔はあどけなくて、仕事のときの面影はまるでない。

「…藤峰さん、もうすぐ着くよ。」

 少し身体を揺すると、杏梨がゆっくりと目を覚ました。

「あ、…えっと…すみません、寝てましたか、私。」
「うん。でももうすぐ着くから。」
「…ありがとうございます。」

 可愛い寝顔だったよ、と言いかけそうになって、雅人は思わず口をつぐんだ。