そして、舟島にて。

約束の刻限を過ぎても、ムサシの姿は見えなかった。
照りつける陽の下で、小次郎はかれこれ半刻近くを過ごしていた。

「どうしたことだ、ムサシは。一向に現れぬではないか」

扇子を激しく振りながら愚痴る武士たちだったが、小次郎は自他共に許す天才剣士の名の下に、泰然自若と臨んでいた。

「小次郎殿、ムサシはまだ現れぬようじゃ。暫時、木陰で休まれるがよろしかろう」
立会人の小谷新左衛門の二度目の声がかかり、ようやく小次郎は松の下に体を休めた。

物見遊山で集まった武士たちの喧噪を他所に、小次郎はほくそえんでいた。
小次郎の心中には、ムサシとの勝負はなかった。

ムサシ如きを相手にすること自体、小次郎には腹立たしいことだった。

藩主細川忠興より下賜された陣羽織で、背に燕の姿が金糸の刺繍で施されている。
本来なら楽な動きの出来る、木綿地の装束で臨みたい小次郎であった。

しかし、試合後すぐに藩主への目通りがあると告げられ
「試合当日の装束で参れ」とのお達しを受けている。

忠興にしてみればその試合に立ち会いたいところではあるのだが、御前試合とすることをムサシが頑なに拒否した。

たかが武芸者同士の私闘ともいえる試合に臨席することなど、藩主である忠興には到底許されるものではなかった。
故にせめても装束だけでもとなった。