「近付かないで、臭いから」


 たまには甘えたくなって擦り寄れば、渓谷のように深い皺を眉間に刻み込んだ恋人は容赦なく一言そう言い放った。読んでいた雑誌を僕の顔へペシッと叩きつけ、自分はさっさと逃げるように机に凭れかかる。思いも寄らなかった言葉に、僕は後頭部を思い切り殴りつけられたようなショックを受けた。

 叩きつけられた雑誌を手に取ったまま、ぼんやりと表紙に視線を落とす。「臭い……」と言われた言葉を吐き出すと、美由紀は追い討ちを掛けるように「そうよ」と鼻を鳴らす。

 重たくため息を吐いて、とりあえずとベッドへ腰を下ろす。しかしそれすらも許さないとばかりに間髪入れずに「臭いが移るから座らないでくれる」と言われたのだった。


「え……何、僕何かした?」

「むしろアンタ自分が今まで何もしていないとか思ってンの」

「思っていません」


 美由紀が不機嫌な理由だなんて思い当たる節がありすぎてむしろ判らないくらいだ。昨日は彼女の楽しみにしていたチーズケーキを食べてしまったし、一昨日は一日携帯を隠してみた。一昨昨日は美由紀の髪の毛を思い切り引っ張って痛みに泣かせたし、その前は……。数えてみるとキリが無い。片手ではとても足りない回数である。思わず彼女に向かって正座した。しかし美由紀はふいと視線を逸らしてしまう。普段はしっかりこちらを見るというのに、その様子からまたかなり怒っていることが知れる。
 一体僕は何をしてしまったのだろう。


「ほんっと、那智はわたしを不機嫌にさせるのがお得意よね。性格悪いったらありゃしない」

「否定はしないよ」

「否定出来るわけないものね」

「でもそんな僕が好きだから久世を振って僕と付き合っているんでしょ、美由紀。……でも今回は本当に何で臭いって言われるのか判らないんだけど」


 美由紀の頬が淡く桜に染まる。そんなところが可愛いよなと、そんな場合でもないのに思わず頬が緩んだ辺り、僕も相当彼女に惚れてしまっているらしい。美由紀は赤くなったことを隠すようにきっと眦を吊り上げて僕を睨む。それから吐き捨てるように言葉を洩らした。


「……甘い匂いがするのよ」