奏多の気持ちは複雑に錯綜したが、正直なところ信じきれない気持ちのほうが勝っていた。

「本当なんですか?実感わかないんすよ…」
奏多が言った。そもそも見間違いの可能性もあるし、取り殺されるなど考えたくもない。

「確かに都市伝説だ。オレもこの話が事実なのかわからない。信じる、信じないは君の自由だ。」
と憲治が言った。

だが奏多は信じたくなかった。オカルトが好きなのは好きなほうだ。だが自分が当事者になるとこれほど落ち着かないことはない。不安な気持ちと何も起こるはずがないという気持ちの間で揺れ動いている。

そして奏多は様子を見てみると言い残し、部室を出た。










奏多が階段に差し掛かったときだ。

奏多は違和感を感じた。
空気が異様に生暖かいのだ。廊下と階段で全然空気が違う。こんなことあるのだろうか。
しかも妙に空気が重い。

奏多は階段を下りるのをためらった。だが、もう一方の階段を利用するには再び廊下を端まで歩かないといけない。嫌な感じはしたが、面倒くさがりの奏多はこの階段を下りることにした。





「待って…」
近くから声がする。
奏多が横を向くと、そこにはショートヘアの女子生徒が立っていた。


「?」
奏多が首をかしげると
「山埼奏多くんね。…」
と言う。
奏多はこの女子生徒とは初対面だ。名前はお互い知らないはずだ。

「小石川さんから話を聞いたの。私は1年の雲居。」
奏多の心を察したかのように雲居は答えた。
そして、


「…戻らないの?」


と聞いてくる。
奏多は部室には今日は戻らないことを雲居に告げた。雲居は首を横に振った。


「…空気が違うの………………気づいてるんでしょ?…」
雲居が言った。どうやら空気の違いに気づいているのは奏多だけではないようだ。

「ほら、近づいてきてる…」
雲居が言った。
いったい何が近づいてきているというのか。奏多は何の用なのか尋ねた。


すると雲居は
「山埼くんに良くないものが見える。顔には死相が…」

「なんだよ!?」
奏多は少し強めの口調で言った。奏多の話を聞いたのだとしても、いきなり良くないものだとか死相だとか、初対面なのによく言えたものだ。都市伝説を根拠にそんなことを言っているのか??だとしたら信じすぎであろう。所詮はネットの話にすぎないかもしれないのだ。全てを鵜呑みにするのは愚かだ。それとも、自分をからかっているのだろうか?
しかしそれにしては雲居の表情は崩れることはなく、堅いままだ。馬鹿にした感じもない。

雲居は奏多に謝り、雲居自身に霊感があることを奏多に話した。だが、言葉の撤回はしなかった。そして雲居は静かに言った。
「声が聞こえ始めたでしょ?…どんどん近づいてる…」


奏多は耳を澄ました。


何か聞こえる。




低い
ボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボ…
という声が。
それは笑い声にも聞こえた。とてつもなく奇妙な低い笑い声がする。


しかも近づいてきてる。





「え?!おい…これは…」
戸惑いを隠せない奏多。
その低い笑い声は、空気をさらに重くし、冷気を立ち込ませた。


雲居は静かに
「それが良くないもの………貴方にしか見えない…冥界の住人。」
と言った。雲居の声はわずかに震えていた。霊感があるからかもしれないが、見えなくても恐怖を覚えるのだ。見える自分は恐怖をも越える恐怖を覚えるはずだ。奏多はそう思った。
ボボボボボボ…

声が近くなった。階段を上ってきてる。

奏多がふと階段に目をやった。
…白い帽子。
あの白い帽子が踊り場の前に見えた。あの女だ、八尺様だ!奏多は確信した。もうすぐそこまで来てる。踊り場を越えたら奏多と目が合ってしまう。

"取り殺される"
なぜか直感的に奏多は感じた。血の気が一気に引き、冷や汗がとまらない。それに息苦しい。奏多は階段に目をやったまま、すっかり動けなくなってしまった。今にも腰が抜けそうだ。

鳥肌が立つほど冷気が立ち込めている。いや、恐怖で鳥肌が立っているのか。
奏多の目には白い帽子しか映らない。それしか見ることができない。薄暗くなった階段を白い帽子だけがやけに際立ちはっきり見える。









―― パチッ ――
奏多の背中を雲居が軽く叩いた。
奏多はハッとし、我に返った。雲居は奏多の手をギュッと握ると、奏多と共に走って階段から離れた。


廊下を雲居に引っ張られながら走る奏多。廊下はいつもの空気だった。だが、冷気がすぐ後ろまで来ている。そんな感じがする。奇妙な低い笑い声は今は聞こえない。だからといって油断はできない。

それはすぐ後ろにいたとしても、決しておかしくはないのだ。






その女は冥界の者なのだから。









薄暗くなった廊下を二人はひたすら走っていく。
雲居は奏多の手を引き、全速力で走っている。しかし後ろは振り返らない。雲居の顔には恐怖感が現れていた。


放課後の校舎はすっかり静まり返っている。これほど気味悪く思ったことはないだろう。

ボボボボボボ…
日が暮れ、闇が広がる校舎内。再びあの笑い声が遠くに聞こえた。思わず心臓がドキッとなる。二人は前だけを見ながら、ひたすら暗い廊下を逃げ走っていった。