5月12日、鈴鹿サーキット。天候、雨。気温はやや低く、各ライダーはこのレイン・コンディションの中、グリップの悪いタイヤに悩まされていた。その中で直人のマシンは、一際輝いていた。前日の夜は徹夜、その前の夜も数時間ほどしか寝ずに仕上げたマシンは、まさに”鈴鹿スペシャル”と言えるものだった。セッティングは変更の余地がないほどに決まり、その結果が予選のポールポジション・ゲットにつながった。そのあまりの凄さに、どこかのチームからクレームがついて、直人のマシンだけ予選後に再車検を受けるというおまけまでついたほどだ。もちろん、あるチームとは星野エンジニアリング、そう中野のチームのことだ。予選の終了直後に、直人がマシンをガレージに運ぼうとしていると、中野がコントロールタワー(レースの競技委員長がいる部屋)に駆け込んで行くのが見えたのだ。あの姿は、はたから見ていて大笑いだった。もちろん、直人はレギュレーション(競技規約)に違反するようなことは一切してはいない。
”ざまあみろ”
直人はそう思いながら、ガレージの中に入った。ガレージの中は閑散としていた。中で直人を待っていたのは、一握りの工具だけだった。いつもの雅之の大声もなく、もちろん玲美の笑顔もなかった。直人は吹き込む雨を避けるため、ガレージのシャッターを閉じると、買ってあったオレンジ・ジュースの缶を空けて、一口喉に流した。でも、飲んだ気は全くしなかった。イスに腰かけて、深いため息ひとつ…。疲労はピークに達していた。ストレスがたまり、胃は大穴が開いたかのように痛んでいた。もちろん痛いのはそれだけではなかった。
「玲美…」
呟いてみた。しかし何事も起こらなかった。ポールを取った喜びはなく、それ以上に喜びを分かち合う人がいないことの空虚さに、苛立ちを覚えた。そっと時計をのぞく。気がつけば時は流れ、そろそろグリッド(スタート地点)につく時間だった。直人はマシンに目をやった。愛機からは静かな闘志が感じられる。今の自分には全くないものだ。直人はゆっくりとイスから立ち上がり、ガレージのシャッターを上げた。外は雨のままだった。まるで直人の気持ちのようだ。