北から流れてきた羊雲たちが、まるで僕を飲み込むように群れをなして、緋色の空を歩いていく。音もなく、暖かい風に乗って、群れから飛び出すこともなく、遅れることもなく、誰かを追い抜かすこともなく、ただ黙然と僕の頭上を越えて行く。金色に輝く真綿のような背中と、灰白色にすすけたアバラ腹を空に浮かべ、彼らはひっそりと瞳を閉じて何も語らず、まどろみの中に身を投じている。僕はただじっと空を見上げ、その締め付けられるような美しさと何人たりとも寄せ付けないもの悲しさに、時が経つのを忘れたたずんでいた。
 空と大地が繋がる丘の上で、小さな影が動いた。腰をかがめ、一面に実った大麦をつむぎ、それを一粒かごに入れてはまた腰をかがめて麦をつむぐ。何十、いや、きっともう何百日も同じ動作を続けてきたのだろう。影は体に馴染んだリズムを刻みながら、片時も立ち止まろうとはしなかった。摘む、屈む、そしてまた摘むぐ。羊雲がそうであるように、その小さな影もまた柔らかい風に身を任せ、大地の声に歩幅をあわせているかのようだった。

 僕はおもむろに腰を上げた。糸のほつれたテディベアを抱きしめ、今にも折れてしまいそうな足取りで、金色の丘へと続くまっすぐな砂利道を歩いた。そのうちに影の主が少女であることに気がついた。少女は空を仰ぎ、大地に耳を傾け、唄を歌いながら麦を摘んでいた。摘む、屈む、そしてまた摘むぐ。屈むたびに少女の姿は麦穂に埋もれ、また現れては影を伸ばす。小さいはずの少女の背中が、僕の目にはひどく眩しく、大きく見えた。
「どちらから来られた?」
 古い煉瓦造りのサイロまで歩いたとき、不意に声を掛けられた。振り向くと、デッキチェアに腰掛けた老爺と目が合った。シワだらけの顔と薄くなった白髪に夕日が降り注ぎ、いかにもルシタニアの麦畑が似合うといった風情のその老爺は、何をするでもなく、ただ静かにデッキチェアを揺らしながら、目の前に広がる大地を見つめていた。
「ジャポン(日本から)」
 覚束ないポルトガル語で答えると、老爺は静かに頷いた。
「あなたの畑ですか?」と僕は大地に目を向けた。
「ええ」
「あれはお孫さん?」
「ええ」
 老爺は座ったまま膝の上で手を組んだ。
「ロニと言います。私はあの子を我が子のように愛しみ、育ててきました。しかしもう私は長くない。頼れる家族もない。私が逝けばあの子は一人になってしまう」
 それに、と老爺は続けた。
「あの子は生まれつき喋ることができないのです」
 僕にはとても意外だった。だから老爺の言葉を遮った。
「でも、彼女は誰よりも言葉を愛し、優しい旋律を奏でている。今だって、僕には彼女の歌声がとてもよく聞こえるのですから」
 すると老爺はシワだらけの相貌を崩して空を仰ぎ、嬉しそうに微笑んだ。
「どうでしょう、あの子をもらってはいただけませんか」
「もらう?」
 僕が訝しげに首を傾げると、老爺は少し右足を引きずりながら立ち上がり、少女に向かって口笛を吹いた。パッと少女が顔を上げる。その姿に目を細めて手を振りながら、老爺はもう一度僕に言った。
「あの子をもらってはくださらんか」
 僕はじっと老爺を見つめ、すす汚れたテディベアを握りしめた。聞き間違えたのだろうか。正直ポルトガル語は得意じゃない。それともからかわれているのだろうかと黙っていると、「子供さんは?」と老爺が尋ねてきた。
「いません」
「奥様は?」
「一週間前に他界しました」
「ああ」
 老爺はテディベアに視線を落とし、「そうですか」と言って口をつぐんだ。
「この話はお断りします。僕にはとても荷が重い。あなたはどうかしている。僕はあなたにたった今出会ったばかりじゃないですか。当たり前のことですが、僕には彼女をあなたのように愛せる自信がない」
 僕は一息にそう言うと、すみませんと日本語で頭を下げた。
「そうですか」
 老爺はもう一度口笛を吹き、少女を手招きすると、「それなら」と続けた。
「どうかそのぬいぐるみをここに置いていってはくださらんか」

 結局僕は老爺の申し入れを半分は断り、半分は聞き入れた。つまり、十年間アカリが肌身離さなかったテディベアを老爺に渡し、一人で彼の地をあとにした。老爺はテディベアを受け取ると、それを少女に手渡した。ぬいぐるみを大事そうに抱きしめた少女の顔が、ほんの一瞬アカリとだぶって見えた。
「オブリガーダ」と少女の口が動いた。
 声は聞こえなくても、ありがとうと言っていることは容易に分かった。
「デナーダ」
 吸い込まれそうな瞳を避けるようにそう返すと、僕は二人に背を向けた。
「……チャウ」
 と少女の声がした。金色の大地に風がなびいた。長く伸びた自分の影を追いかけるように、僕は足早に丘を下りた。
「チャウ」
 少女がもう一度そう言った。とても寂しそうな声だった。
「チャウ(さようなら)」
 僕は声を震わせながら呟いて、少女とテディベアに別れを告げた。

 それから三日間、僕はレイリアの街で抜け殻のような日々を過ごした。何度もアカリの夢を見た。けれどその姿はどれも断片的で、彼女の声はもうあまり聞こえなかった。代わりにロニの顔が思い浮かんでは消えていった。テディベアを手放したせいだと思った。あれで良かったのだろうかと何度も自問した。僕はこのままアカリの夢に捕らわれて、深い樹海の中で眠りにつくはずだった。それなのに……
『生きよ』
 と老爺は言ったのだ。
 三日もかけて、ようやく僕はあの老爺のまことの心の声を聴いた。あるいはそれはアカリの声だったのかも知れないし、そう思うことすら単なる僕のエゴであって、本当はただ生きていたいだけの自分を着飾るための自己弁護でしかないのかも知れない。
 四日後の夕刻、僕はもう一度あの丘に登った。サイロの傍らのデッキチェアで、テディベアが静かに揺れていた。
「ボアノイチ(こんばんわ)」と煉瓦造りの家を覗き込んでみても、まるで人の気配が見あたらない。丘の彼方を見上げると、あの日と同じ無数の羊雲が、大麦畑の丘を金色に染めていた。
 ふとその丘の上で影が動いた。肩で息をつきながら辿り着くと、街を一望できる何もない丘の頂にたくさんの石が積まれていて、その傍らに少女がうずくまっていた。少女は眠っているようだった。手足は土にまみれ、ひび割れた爪は赤黒く変色していた。
「……ロニ」
 と呟いた途端、僕の頬を音もなく涙が伝い落ちた。
 どうしようもなく涙があふれた。
 僕は少女が無数の石を積み上げて作った墓碑の前で膝を折り、むせぶように突っ伏して泣いた。
「オブリガーダ」とロニが言った。
 今にも消えてしまいそうなその声は、暖かい陽射しの風に乗って空に舞い上がり、金色に揺れる大麦畑の香りとともに、確かに僕の胸に触れて響いた。



「ロニ」完