メイは、どうしたらいいのかわからなかった。

そして、そんな彼女を見守るソールも、どうしたらいいのかわからなかった。


戸惑いの色をなんとか押し隠しながら、店番を続ける二人とは対照的に、ルースはあっさりと元通りの生活になった。

朝から晩まで主食はアルコール。ほとんど食事は取らずに、ふらりと店に現れたかと思えば、自分を訪ねてくる女性客と消えてしまう。


「メイ」

ぼんやりしがちなのを見かねて、ソールが呼び止めても、メイは返事をするのがいつもワンテンポ遅れる。

「なあに?」

疲れているのか、考え事をしているのか定かではないが、メイに元気がないことだけははっきりしている。

「ここは辞めて、親父の店を手伝わない?」

「え?」

「相変わらず忙しいんだ、あの店。メイなら、きっと上手にお客さんの相手ができると思うから」
ふっと、嬉しそうに笑みを見せたメイ。その表情がすぐに曇るように見えるのは、きっとソールの気のせいではない。

「ありがとう。…考えて、みようかな」

「本当に?」

ソールがメイを、ローランド洋菓子店に勧誘するのは、これが初めてではない。だけど、「考えてみる」という答えをもらったのは、初めてのことだ。

いつもなら、笑いながらすぐに断られたのに。

「うん。本当。心配してくれてありがとう」

「いや…」

ソールは、自分の心配がメイにも伝わっていることに恥ずかしさを感じ、またそれを「ごめんね」ではなく「ありがとう」という言葉で返してくれるメイを、やはり好ましく思う。


表情が曇るのは、まだこの店に未練があるせいだ。ソールはそう思う。





また、か。

メイは、店と厨房の照明を消して、2階に引き上げてきたところだ。

自分の使っている部屋に行くまでに、どうしてもルースの部屋の前を通らなければならない。

「また」と思ったのは、そこが開け放たれていて、部屋の主の姿がないことだ。


あの、「これで終わり」だと感じた夜から、ルースは閉店時間も女性客と外出するようになったのだ。

それまでだって、寝ていたりお酒を飲んでいたりして、だらしがないことは確かだったけれど、この時間は店か部屋にいるはずだった。


あたしが鬱陶しいんだな。

メイは、酒浸りのルースを立ち直らせて、店も家も心地よい場所になるようにと努めてきたつもりだった。

それは、行き場もなく仕事もない自分を、気まぐれであろうとも一応助けてくれたルースの恩に報いたいという純粋な気持ちからだった。


それが、恋に変わったと自覚したその瞬間から、あっという間に状況は変わってしまった。メイは、人気のないルースの部屋を見ながらそう思う。

あたしの存在はもう、ルースのためにはならないのかもしれない。


そう思った瞬間、殺風景でものの少ない部屋に、強く風が吹き込んだ。そのために、いつもはないものがあることに気がついた。

引き出しも何もないシンプルな机。その上に、1通の手紙があったらしい。

それがひらりと飛んで、床に落ちたのだ。


どくん。

メイは、いけないことだと思いながらも、そっと部屋の中に足を進めた。



“ルースへ”



その繊細な美しい文字列を一目見た時、メイは激しい動悸に襲われ、息ができなくなってきた。

そして、その苦しい息の下で、やはり見るべきではなかったのだと、深く後悔することになった。





翌日、メイは店番もままならない様子だった。

朦朧とした状態は、睡眠不足のせいだろうか。顔色は悪く、声に覇気がない上に、とうとう笑顔も消えてしまった。

「メイ、今日はゆっくり休んだほうがいい」

ソールが強引にメイを厨房に下がらせた時、ふらりとルースが外からのドアから姿を見せた。


「あー、気持ちわる」

恥ずかし気もなく、厨房のシンクでげえげえと嘔吐しはじめるルースを、メイはただぼんやりと見ていた。

「もー、厨房でリバースとか、マジありえないだろ…」

呆れながらソールが世話を焼き始めたが、それでもメイは動けずにいた。


ああ、あたしの中にはもう、元気が残っていない。ママからあんなにたくさんもらったのに。あたしが死ぬまで持つくらいの蓄えはあるだろうって信じてたのに。


メイは、そう思うと、心の底から悲しくなった。


「あー、すっきりした」

どこか楽しそうにルースが笑いながら、ソールに絡んでいるが、鬱陶しそうに解かれている。

「で、ガキはなんでサボってんの?病気?」

「ガキ」がメイを指していることは明らかだ。知らん顔をしようと思ったわけではないが、突然話を振られても、今のメイには反応することすらできなかった。

「ほーら、お薬だよ?」

よろよろしながらルースが何かを口先に持ってくるので、メイは仕方なく口を開けた。

具合が悪いのは確かだけど、風邪でもないのに風邪薬を飲んでいいんだろうか。そう思っていたメイは、口中に広がる刺激に度肝を抜かれた。


「な、」

「なにこれ」というつもりが、声にならずにげほっと咽せこんだ。


「ルース!何を食べさせた!?」

ソールが慌ててメイの背中をさすって、顔を覗き込んでいる。

「ぐ・み」

「ああ!?」
「だーかーら、グミだってば、ただの」

「ただのグミでこんなに咽るはずねーだろ!」

「ちょーちょーレモン味でーす」

ルースとソールが何か言い合っていたけれど、もうメイの耳には入ってこなかった。


手紙の差出人にも敵わない。そして、ルースにとっても害になる。



あたしの恋は、「今度こそもう終わり」だ。



メイはそうはっきりと認識した時、ドアの影に見慣れた小さな小さな少年の姿を見つけた。

手招きしている彼とは、メイが山で暮らしている時からの付き合いだ。それはつまり、母と過ごした日々を直ちに連想させることになる。

自分では唯一の取り柄だと思っていた元気がなくなった。

そこに現れた少年に、まるで吸い寄せられるようにして、メイは厨房から姿を消した。



裏口から外に出ると、いつの間にか小さな姿だったはずの少年が、自分の背丈ほどの大きさになっていて、メイは自分が夢を見ているのだろうかとぼんやり考えた。

「メイ」

いつもはぱくぱく口を動かしているだけだったのに、言葉まで聞こえるなんて。

「元気が出るおまじない」

その台詞が耳に届いたかどうかというとき、すでに彼女の目から涙がどっと溢れ始めていた。

「僕の元気を全部あげるよ」

温かい体温にすっぽり包まれて、そう耳元で囁かれると、メイはボロボロだった心が少し癒えるように感じた。


「ママみたい」

メイの母、ライザが、よくこうしてぎゅっと抱きしめて同じ言葉をくれたのだった。

「君の家にはときどき遊びに行かせてもらったから、知ってるよ」

幼い顔立ちの割に、大人びた口調の少年の胸で、メイには、あの小人とこの少年が、同一人物だという実感があまりわかなかったけれど、頷いた。


「だから、今度は君が僕の家に遊びに来ない?帰りたくなったらいつでも帰ればいいから」

友達の家に、遊びに行く。そんなことさえしないで、ひたすら働き続けていた数ヶ月が、なんだか遠い日々のように思えた。

メイはようやく体を起こし、彼の顔を見つめた。

友達と言っていいのかどうか、わからないけれど。その上、明らかに人ではないだろうし、守り人か、妖精か、よくわからない存在ではあるけれど。

「行ってもいいの?ええっと、あなたの名前は?」

「ルーファス」

「じゃあ、ルースに、ルーファスの家に行くって言って来るね」

「だめだよ」

「…え?」

低い声で即答する少年に、メイは無自覚ではあるものの、わずかに恐怖心を抱いた。

「彼には僕の話をしてはいけない。その訳は、家に着いたら話してあげる」

そう言ってくすっと柔らかく笑う少年は、直前の硬い表情のせいで一層魅力的に見えた。そしてなにより、「訳」というものを聞いてみたいと、メイは強く思った。


その珍しい強い欲求は、まるで危険な誘惑のように、メイの理性を飲み込んだ。